英才教育のヒ-ロ-・アレキサンドロス

<読書会Ⅰ>                  2019/1/25 あらまき作成

はじめに・・歴史を学ぶと言うこと。

福沢諭吉は「学問のすすめ」のなかでこう言っている。

自分は「普通の人」を育てたいと。普通の人とは、世の中の風潮に流されないで「自分の考え」を持っている人のことである。歴史には過去を生きた人の生き様が残っている。

これを学び自分の生き方を「考える」人になって欲しいのです。

            (記)

ギリシャ人の物語・新しき力」  塩野七生著から

 

かの有名なアレクサンドロス大王の事について、我々はどこまで知っているのだろうか?

紀元前300年頃の話である。中国では秦の始皇帝の頃である。

1.都市国家アテネと父王フィリッポス。

都市国家アテネ(賢人ペリクレス・民主制・覇権国)の凋落始まる。そして二度と元へ戻らなかった。

ペロポネス戦役アテネとスパルタ間)の敗戦(紀元前404年)による。軍事大国、経済大国の地位からも突き落とされた。

勝った方のスパルタ(身分格差のある寡頭制・軍事力(傭兵出稼ぎ)のみで経済センスなし)もまたペルシアに負け衰退した。今に残る文化遺産無し。スパルタの重装歩兵は図-2-1

②その後スパルタを負かした(前375年・レウクトラの会戦)テ-ベ都市国家・寡頭制)も中小企業(2人の俊英な総司令官が戦死))に過ぎず覇権国家としてギリシャに君臨できなかった。→そしてギリシャには「誰もいなくなった」

③この3年後ギリシア北にあるマケドニア(王政)で23歳のフィリッポス二世が王位に就く。そしてまた3年後にアレクサンドロスと言う息子が生まれる。図1

マケドニアの王政は変わっていて、王は有力な武将達による選挙で決まる。フィリッポスは血筋、軍の総司令官、内政と外交上の手腕が優れていた。

⑤新生マケドニア軍:a.兵士を農民層まで広げた。(国民軍)b.兜、甲冑、盾等を軽量化した。c.槍はスパルタ比で2倍の長さにした。図-2-2

d.重装歩兵「ファランクス」を大型化した。図-3-1 恐怖心を取り除くためである。

d.古代人は鐙(あぶみ)を知らなかった。騎兵の足は固定できず、槍で突いたり、投げるしかなかった。練達の騎兵は幼少の頃から馬に慣れた者のみ。「騎士階級」と言う。

トラキア地方の鉱山を確保し、財源確保にも努める。

⑦アレキサンドロスの家庭教師としてアリストテレスを呼ぶ。学友が沢山できた。哲学の祖・ソクラテスプラトンアリストテレス。文化を大事に。アテネの学堂」という有名なラファエロの絵がある。

⑧ついにギリシアの覇者に。紀元前338年、北から南下してきたマケドニア軍(歩兵3万・騎兵2千)とギリシア都市国家連合軍(3.5万)がカイロネアの平原で向かい合った。

騎兵の指揮官がアレキサンドロス。「ダイヤの切っ先」図-3-2 勝機と見た一瞬を逃さず、テ-ベ軍の裏に廻り神聖部隊に突入。戦況は一変。これが初陣。図-4  以降今回を含めて6戦全勝&全てが快勝!

「カイロネアの会戦」はマケドニアの大勝で終わった。1.2万で参戦したテ-ベ軍で生き残れたのは1/10に過ぎなかった。マケドニア側は死傷者の記録がない。記す程の数でなかったため。→兵士の士気が上がる!(重要)次の目標はペルシャの征服であった。

⑨フィリッポスの戦後処理が長年の妻(オリンピアヌス)を離婚、娘ほどの年齢のクレオパトラと結婚した。これをきっかけに父-息子が不仲。家出までした。フィリッポス46歳、王位に就いてから23年、首都の劇場へ向かう途中で近衛兵の1人に暗殺された。

犯人の若い愛人を王の高官が強姦したので直訴したが受け付けて貰えず犯行に及んだ。

 

2.アレキサンドロスの育ちと躍進。

①アレキサンドロス(20歳)が王位継承。有力武将による選挙の結果である。能力の高い2人、父と子はいずれ正面から激突したであろうから、ギリシャにとって幸いなことであった。

②アレキサンドロスの育てられ方。父は豪放磊落、野蛮な兵士と同じように振舞う。母・オリンピアはこれが嫌でギリシャ的、文明的に育てた。反面教師が父

「生涯の書」はホメロスの抒情詩「イ-リアス」で母から聴かされて育つ。この本の主人公は、1本気で正直でフエァプレ-で事を解決する「短命でも輝かしい生涯を」と高言するアキレウス(アキレス腱)であった。

生涯の友、幼少期の遊び相手、ヘ-ファイスティオン。図-6

そして、命を託す馬。体格も大型、俊足だが猛々しい「ブケファロス」。アレキサンドロスのみが乗りこなせたので購入。生涯の愛馬に恵まれた。

④父の英才教育Ⅰ、武力と体力の強化の師「スパルタの王、レオニダス」そしてスパルタ教育。全重量40キロの重装備で長距離行軍など。学友仲間も参加。→学友はペルシャ進攻時の一軍の武将になる。

英才教育Ⅱ、哲学者・論理学の創始者アリストテレス(40歳)を招聘。アテネ式教育の内容は不明だが、以下推測できる。アリストテレス知的関心は広範囲だった。自然界、人間界に関係なく何にでも関心を示した好奇心の強さ、そして抜群のバランス感覚の持ち主であった。

「理論的には正しくても、人間世界では正しいとは限らない」・・「知識」と「知力」の違いを感じる一句である。

知力とは、縦の情報(歴史)と横の情報(日々の情報)に対し偏見なく冷静に受け止める姿勢の確立→自分の頭で考え自分の意思で判断→実行へ。この能力の向上である。

 

⑤20歳で王に。残していくマケドニアの安全とギリシアの安定を父王時代からの高官(後述・外交が得意→母オリンピアヌスへの対応、軍資金不足あり)に任せて東征へ。1.2万の歩兵、1500の騎兵を残す。遠征途中の兵の交代要員だった。連れていったのは3万の歩兵と5000の騎兵(比率が多い)のみ。騎兵の機動性に目を付けていた。

⑥行軍の速度が速かった。先頭を行くアレキサンドロスが早いのだ。

グラニコスの会戦」初めての王として、ペルシャ軍との戦い。当時のペルシャは裕福な国で辺境とは言え総勢4.5万(内騎兵1.5万)内容は省略するがアレキサンドロスの相手主力部隊の裏へ攻め込む突撃でアウエイ勝利。その日の内に決着した。ペルシャ側戦死者4000人、2000人が捕虜になった。捕虜はマケドニアの鉱山へ送り強制労働へ。マケドニア側の戦死者は騎兵25(エリ-ト)+60人、歩兵戦死者は30人。勝利のあとは兵士全員での大パ-ティ-を行う。最高司令官は酒飲みで宴会好き。身分差の無い修学旅行気分だった。

しかし、次の目標はサルディス。サルディス防衛の高官は平和裏の開門を選び→エフェソス、ミレトスへ。いずれも城門を開く。捕虜にしたギリシア人傭兵200人はギリシャ軍へ編入させた。「寛容」で臨んだのである。

ペルシャ帝国は当時最大強国の国ではあったが、明確な組織の上に築かれた中央集権国家ではなかった。多くの部族に分れ、部族の地方長官(サラトベ)がいてその上にゆるく王による支配のネットを広げることで成り立っていた。(日本の室町幕府の様)だから、ペルシャ内の行軍では殆どの部族とは平和裏に通り過ぎることが出来た。現状維持を約束。この間、兵を一時帰国させたり、新規参加兵を募集している。

⑧「ゴルディオンの結び目」・・この結び目を解くことが出来たものだけがオリエンとの支配者になれる・・と長老が言う。ロ-プの先端が何処にあるか分らない。→司令官は一刀両断。明快で単純に対処が有効。

ペルシャ王、ダリウス3世、47歳が遂に立つ。しかし、打つ手が常に遅れる人であった。

オリエント人の気質もあって、多くのご意見番に囲まれていたからである。決断した後に迷いを生じた。一方のアレキサンドロスは即決、独断。

イッソスの会戦」へ。当時、豊かなメソポタニア地方(ユ-フラティス川、チグリス川)こそペルシアの中核地帯であった。ペルシア軍15万、に対しギリシャ軍3万(歩兵2.5万、騎兵5000)。前の会戦後より少ないのは戦略要地ごとに基地を置き兵を残して来たためである。アレキサンドロスは11月までダリウスを待ち、その間戦略・戦術を各隊の司令官に告げている。彼の人生で会戦と呼ぶに相応しい大バトルは4回あるが、「イッソス」こそ最も重要な戦闘であった。

戦況は図-7~10に示すが、例によってアレキサンダ-の騎兵部隊が機を見て敏に敵主将ダリウス目掛けて突進。結果としてダリウスが1人で馬で逃亡したため決着がついた。

有名な絵が残っている。図-8に示すものである。

戦闘に勝つ方法は1つ。味方をパニックにしないで、相手をパニックに陥れることに尽きる。(日本で言えば、関ヶ原の戦い小早川秀秋が家康側に寝返る場面→1日で決着)

ペルシャ側犠牲者歩兵10万、騎兵1万。圧死が多かった。ギリシャ軍の損失は戦死者450人のみ。圧勝であった。戦死者はその戦場で火葬にされ、その戦場に葬られた。死者の埋葬は、彼らを率いた最高司令官が行うのが慣例だった。これは後のロ-マに引き継がれている。最高司令官にとって、兵士は戦友なのだった。一方のペルシャは何もしない。

⑪次はa.一気にペルシャの本拠地に攻め込むb.エジプト制圧。の2つの選択があったが、司令官は後者を優先する。やはり、「イッソス」の影響は大きかった。地中海東岸の海港都市が揃ってペルシャを捨てアレキサンドロスの支配を受け入れた。この頃鋳造させたアレキサンドロスの金貨が残っている。自分の横顔を通貨に掘らせたのはアレキサンドロスが最初である。後にロ-マ帝国がカエサルを初めとする皇帝達が真似るようになった。

 

⑫.4回目の会戦がティロス攻防戦だった。ティロスは地中海沿岸から500m離れた海上浮かぶ島に都市部があった。ペルシア側に戻る可能性がある都市は背後に置かないフェニキアペルシャ)海軍は放って置けない・・の2点から陸地側から500mに及ぶ突堤を海中に築き島を舟で囲んで封鎖した上で総攻撃して陥落させる。7ヶ月の忍耐と我慢であった。

これで、「シ-レ-ン」が確立された。ペルシャ王ダリウスから2度の講和の申し入れあるも全てはねつけた。ここまででアレキサンドロスが負傷したのは3度になるが常に最前線に立つ。

⑬エジプトの専有。エジプト人ペルシャの支配に常に不満を抱いていたのでマケドニアの若者を解放者として受け入れる。前331年24歳。(3年目)

政治的な面も手抜かりは無かった。

今まで軍事的に制覇した地域での、彼の支配下での再編成も忘れなかった。

即ち、・行政事務は、留任を認めたペルシア人に。

   ・防衛担当の軍事は、マケドニア人に。

   ・税の徴収などの財政事務は、マケドニア人以外のギリシャ人に。

 従来地方長官に集中していた権限を3分割したのである。エジプト以降もこの制度は続く。

ガウガメラの会戦(5回目)ダリウス(49歳)との2回目の最後の戦いである。今度は平地なので、ペルシャ側は新兵器・鎌つき戦車(図-9)200台と15頭を前線に置いて活用するため選んだのである。

しかし、アレキサンドロスは行軍途中で斥候・捕虜により敵の情報を得て、事前に対応策立て訓練して戦闘に臨んだ。

結果は、象は産地でないためコントロ-が下手。槍を突き立てられて、Uタ-ンして自軍へ暴走。鎌つき戦車も向かってきたらさ-っと身をかわし通り過ぎたら閉じる・・ことでその間に馬に対して投げ槍や弓矢を浴びせかけた。これで、新兵器は非戦力化してしまった。

戦況は、前回イッソス同様に勝機をみてアレキサンドロスが騎兵を連れペルシャ主力歩兵を側面から突いたので、後方にいたダリウスはまたもや逃走したのだった。5倍の戦力が総崩れになったのだった。

⑯「ダイヤの切っ先」:アレクサンドロスの後に現れた古代の名将は誰か?第二次になるポエニ戦役で16年間ロ-マ軍をキリキリ舞させた、カルタゴの将ハンニバル。そのハンニバルを最後の一戦で破ったロ-マの将スキピオ・アフリカヌス。西方を制したロ-マきっての武将ユリウスカエサル。この3人が武将としてのナンバ-ワンはアレキサンドロスで一致していた。しかし、3人ともアレキサンドロスのやり方を踏襲していない。連戦連勝なのに・・・。

皆「ダイヤの切っ先」になったこともなく、敗戦を経験している。

そして、最後には3人ともが、笑いながら言った。「なにしろ彼は、若かったからね

 

⑰逃げ出したダリウスはその後側近達に殺された。

ここで、アレキサンドロスはペリセポリスの王宮の炎上のみは命じた。(アケメネス朝ペルシアの滅亡をペルシア人に分らせるため)しかし、都市部や王の墓所には手を触れさせなかった。皇后と娘も処罰なし。(寛容の精神→ロ-マへ引き継がれる・クレメンテスと言う)

 

3.総司令官にも色々な問題が起こり悩む。そして、死へ。

中央アジアへ。この間、マケドニア騎馬軍団に陰謀が発覚する。父王の有力な側近であったパルメオンの息子フィロ-タス。優秀な武将であり、アレキサンドロスの直ぐ後ろ(次席)にいた騎馬軍団の総指揮官である。不満分子の不穏な空気(暗殺計画)をアレキサンドロスに伝えなかったからである。息子(処刑)の罪は父親にも責任がある・・と言う決まりがあり、70歳になる父パルメニオンも自ら死を選ぶ。他人より成長することは、孤独になることだった。次席にはクラテロスがなる。スパルタ教育の学友である。この事件で死刑になり出来た空席を埋めるため昇進した1人にアレキサンドロスの死後にエジプト王になるプトレマイオスもいた。

②東征再開。最高司令官は27歳になっていた。戦闘に勝って獲得した地でも戦略的に大事な土地毎にアレキサンドリア」と名つけた新しい町を建てて行く。基地の建設、道や橋などのインフラ全般担当が親友ヘ-ファイスティオン。カブ-ル北部山岳地帯に入ると、地勢は複雑でゲリラ戦となった。食事も兵士と同じものを食べ、寝るのも将達と同じ天幕で雑魚寝であった。補給源の確立が必要だが、ギリシアから補給物資が一兵卒まで届き、通信・手紙も届いていた。こうして、ゲリラ相手の戦闘にも勝ち続けることが出来た。

28歳。ここで、古い将の1人が酔ってアレキサンドロスを非難した。アレキサンドロスも酔っていたので、槍を投げつけ即死させてしまうと言う事件が起こる。これから、28歳は部屋に閉じこもる。自己嫌悪→憔悴しきった王の顔を見て涙する兵士に王も涙を流し責任感から立ち直る。現地人との融和政策により部族の長の差し出された娘(ロクサ-ネ)を貰う。絶世の美女だったと言う。彼は側室や愛人を持つのは嫌いだった。戦いより融和政策を進める。敗者同化戦略である。率いる軍そのものがマケドニアギリシャ軍が多民族軍に変容しつつあった。

インドへの道。最後の会戦・「ヒダスペス」。相手はボロス・インドの王。象の扱いが得意。戦力は歩兵5万、騎兵6千、両輪に鎌を付けた戦車500台。訓練された象200頭。

一方、アレキサンドロス(30歳)側は歩兵4万、騎兵4千。戦車・象はゼロ。

河をはさんで向かい合う。捕虜になった敵方の者を釈放して偽情報を流すかく乱作戦でボロスが狼少年を信じなくなった。詳細は省くが、会戦の度に戦略・戦術・機動性向上と進歩させてきた。盾は小型化、槍も普通の長さに戻し、歩兵はファランクスをやめ数多くの分隊(散兵大村益次郎鳥羽伏見の戦い)に分けられた。小回りが出来るようにするためである。

結果は、アレキサンドロスも数箇所の手傷を負っていたが、象の上から指揮していたボロスの方は投槍と矢の集中攻撃を受け出血多量で気を失った。血まみれの主人を象が気がつき前足を曲げて地についた形で停止した。これが合図となり王の象に他の象も従うように訓練されていたので、会戦は終了したのだった。ボロスは捕虜になる。マケドニアの医師チ-ムに応急処置を施させた。この後、両者は対面する。この会戦での死者はボロス側2.2万人に対しアレキサンドロス側1000人。しかし、これまでの会戦に比し多かった。

・アレキサンドロスはボロスに王としての処遇を与える。生き残った王の兵士には全員に自由を与えた。最後にはインド王ボロスはアレキサンドロスの同盟者になった

④これから・・・

愛馬ブケファロスが主人を下ろしたところで亡くなった。17年間の人馬一体の仲。

・アレキサンドロスの兵士がストライキに突入。マケドニアの兵士から「8年戦い続けて疲れた」「これ以上東方へは行きたくない」であった。4日後、「よろしい、帰りたいと言うお前たちの要望は受け入れよう」となった。しかし、どう戻るかは、アレキサンドロスが決める

・インダス河に沿って南下することになったが、この地方の王が抗戦(城壁内にこもる)に出た。最前線にいたアレキサンドロスに城壁の上から射られた矢が胸に命中したのだ。兵士が矢を抜いたため出血多量で気を失う。今までで一番の重症であった。兵士達は王が死んだと・・大騒ぎになった。4万の大軍である。この兵士の不安と恐怖心消すのに苦労した。

⑤回復した総司令官は前325年4万の全軍を3軍に分ける。第一軍2万はス-ザ経由帰国ル-ト。

第二軍1万はアレキサンドロスが率い海岸に沿ってス-ザに向かう。好奇心による探検行だった。残り第三軍は海上ルート。こうして、ヨ-ロッパ人未知の地である最初の冒険行は完全踏破された。犠牲者なし。

⑥敗者同化とそれによる民族融和の夢:公共心と言う言葉はギリシア人の発明。ペルシャ帝国の「地方長官(サラトベ)」は行政、軍事、財政の3権を全て持っていた。従って、私財をため込む者もいた。この3権をアレキサンドロスは分割したが、不正をまだ働く者は解任し、厳罰に処した。信頼を裏切ったからである。

しかし、アレキサンドロスの考えは以下の通り。

「ヨ-ロッパもアジアも今や1つの国になったのだ。君たち全員が私の同国人であり、兵士であり友人である。誰もが同等の権利を享受し、同等の義務を負う。1人の王の基で運命を共有するのだ」・・これを具体的な形にして示した。

 1万人のマケドニア将兵と、1万人のペルシャの娘との合同結婚式をあげたのだ。この結婚式でもアレキサンドロスが先頭に立った。ダリウスには2人の娘がいたが、長女と自ら結婚し、次女はヘ-フィスティオンと結婚させた。マケドニアに妻がいても、皆2重結婚だった。そんなことはお構いなしの命令だった。ハ-フの大量生産システム。→このやり方はロ-マにも引き継がれ、属州民として兵役につき→満期除隊後はロ-マ市民権まで与えられた。(世襲市民権)ユリウス・カエサルは自分が征服したガリアの有力部族の長に元老院(今なら国会)の議席を与えたことで、元老院内部の旧主派を敵に回し暗殺された。

しかし、その後カエサルは後継者に恵まれ、ロ-マ初代皇帝アウグストウスによりカエサルの考えを法律化し定着させた。←古代ロ-マが強大になった要因である。

 

心の友の死ヘ-ファイスティオンが病死したのだ。彼だけがアレキサンドロスの心の内を全て知っていたのだ。何でも話せた人であった。今まで外傷は多々あったが、心の傷は全快することはなかったであろう・・。

 西征を夢見ながら、332年32歳の若き王の目指した先はアラビア半島の征服、そしてカルタゴであった。無二の友の死を忘れたかったのか?バビロンへの全軍集結は4月、5月出陣と決まった。ところが、会議の途中で倒れたり、寝台で寝込むことが繰り返されるようになった。出陣は延期になったが、高熱に喘ぐ日ばかり。病因は「マラリア。32歳の体力なら回復して良い筈が消耗していたのだった。

 最後の別れは長年一緒に戦ってきた兵士たちとであった。兵士の誰一人も去って行った者は居なかった。何故彼だけが、後の人から「大王」と呼ばれるのか?今でもキリスト教徒の親は子に「アレキサンダ-」「アレックス」と名前を付ける人が絶えないのか?

「西征」は後に全てロ-マが実現していくのである。これは200年後になる。

ヘレニズム世界。死に当たって、将達が「この帝国を誰に残す積もりか?」と問う。

答えは「より優れたものに」であった。13年間一緒に戦ってきた学友&将軍7人が残された。皆武将としては優れた能力の持ち主であった。

しかし、洞察力、先を見る力、自分で考える力に差があった。全責任を負って決断・実行を迫られ成長してきたアレキサンドロスとの差は大きかったのであろう。

 結局、後継者争い。同士討ちが始まった。実に50年間。どんぐりの背くらべであった。

残ったのは、セレコウス(シリア)とプレトマイオス(エジプト)の2人。この2人も「より優れた者」の訳ではなく、無理にエネルギ-を使わなかっただけ。図-10

 クレオパトラ(7世)で有名なプレトマイオスに至っては、軍功もなく、当時エジプト担当の「地方長官」だったに過ぎない。

 そして、ロ-マが本格的に乗り出してくるまでの200年間、地中海の東半分を支配する「ヘレニズム時代」になるのである。地中海西方の国に東方に手を出す余裕がなく続く。

アレキサンドロスが残したもの:第一は政治的に安定したこと。東征の途中で「アレキサンドリア」と名付けた町を建設。70に及ぶ。軍事基地(治安良し)が必要だったからである。第二にはギリシア語が国際語になった。第三に各国の通貨の価値基準を統一。

これらが、大経済圏を成立させた。第四には、学問と芸術が満開になった。エジプトのアレキサンドリアの図書館(ムセイオン)は研究者の最大の拠点になった。

 芸術面では、ミロのビ-ナスが有名。完成度が高く、ミケランジェロが「我々に出来ることが残っているのか」と嘆いたそうだ。

こうして、ギリシャはアレキサンドロスを経たことで、ロ-マへと受け継がれて行ったのである。    ・・・終わり・・

塩野七生著「歴史エッセイ」一覧 図-11に示す。

 

(感想)

①類い希なる才能が親の天才教育を受けて開花した。軍事、政治、経済全ての面にて優れた人物になった。

②残念なのは、人生を急ぎすぎて、若くして亡くなってしまったこと。後継者を作る暇がなかった。

③彼が長生きしてくれたら、どんな国際的な豊かな国、文化・芸術が花開いたことであろうか・・。

チコちゃんに叱られる、Ⅰ>

①組織って成熟するとどうなるの?--パ-キンソンの法則とは?ピ-タ-の法則とは?

森鴎外の表裏とは?---表は偉大な作家と軍医総監(官僚のトップ)でした。裏は?

③もし、貴方が関ヶ原の戦いで三成側に就いたとしたら、どんな戦略を取るのでしょうか?

                         以上