男の中の男一匹 ユリウス・カエサルⅠ

<読書会資料2>               2019/2/18 作成  あらまき

 

「ロ-マ人の物語Ⅳ」ユリウス・カエサルから

初めに・・

ユリウス・カエサルとアウグストウス」についてまとめました。

先の英雄、アレキサンドロスの死後、その後を西のロ-マで継いだのがこの二人である。

ユリウス・カエサル(英名ジュリアス・シ-ザ-・図-1)は文章力・演説力に優れそのリ-ダ-シップにより古代ロ-マにおいてガリ(今のフランス・ドイツ・スイスなど西ヨ-ロッパ)をロ-マ化してその領域に取り込み、更に元老院による寡頭共和制を帝政に改革した人物である。野心と虚栄心(他人から良く思われたい)の誰よりも大きな人であった。図-6参照。しかし、彼はその改革途上で保守的な元老院達に暗殺されてしまったので、その後カエサルの意思を継いだのがアウグストウスオクタビアヌスカエサルの妹の孫・初代皇帝)である。

 

1カエサル知性に.優れた母親に教育された庶民地区(スプツラ)の出の人である。(母親のX遺伝子が息子の頭の良さを決める?)しかし、ロ-マ有数の名門貴族の生まれである。

2.借金魔であり、愛人を沢山作り誰からも恨まれていない優れた男であった。しかも、公私の区別をはっきり付けていた。最後の愛人こそ、かの美人で有名なエジプト・プレトマイオス朝(ギリシア系)の女王クレオパトラ7(タ-リア)であった。彼女(エジプト)のお陰で1年が365日の今のローマ暦(太陽暦ができたと言われている。

3.二人の間にはシ-ザリオンと言う男の子も出来たから、彼が豊臣秀吉のように種なしではなかった。しかし正妻との間には男子がいなかった。同居して育ったオクタビアヌスの才能を早くから見抜き後継者として指名していた。

4.オクタビアヌスは英明ではあったが軍事面で弱いと見たカエサルアグリッパと言う指揮・戦闘能力の高い人を付けている。

 

5.それでは、カエサルの成長と最大の功績であるガリア戦記を簡略に見て行こう。

①ロ-マの建国から653年経た、BC100年7/12生まれである。カエサルは姉と妹に挟まれた1人息子である。それゆえか、母の愛情を満身に浴びて育つ。生涯を通じて彼を特徴づけたことの一つは、「絶望的な状態になっても機嫌の良さを失わなかった」ことであった。楽天的でいられたのも、ゆるぎない自信があったからだ。

②17歳の成人式を迎える前16歳で政略結婚。当時隆盛を誇る総司令官スッラ(独裁者・元老院派・恐怖政治で有名)の反対派(民衆派)キンナの娘であった。キンナは案の定スッラを迎え撃つ前に殺された。

③スッラ(57歳)は民衆派の「処罰者名簿」を作り弾圧した。キンナの娘を離婚せよ・・は命令であった。これに対して「民衆派」を裏切る行為は将来リ-ダ-を目指すカエサルはしなかった。「絶対権力者と言えども、個人の私生活に立ち入る権利はない」と考えたからである。

④そして、カエサルは何もしないで待つことにした。そこで、前線勤務の好きなカエサルはキリキア地方の海賊対策に手を焼く地方の属州総督の下で働くべく逃避行を実施した。

⑤まもなく、スッラの死を伝える急使が到着した。そこで、帰国

⑥政治キャリアを目指す者に魅力的な弁護士を開業(23歳)。ロ-マの主要官職は全て市民集会での投票で決まるからだった。しかし、まだスツラ派の天下は続いており、敗訴を重ねて身は危険だった。そこでまた同期生達が出世する中を国外脱出。しかし、途中で海賊に捕らわれたりしながら、目的地ロ-ドス島に到着。ここでは、ストア学派の哲学者アンポロニウスの所へ留学。ほとぼりを冷ます。

⑦ここに空席になった神祇官の地位カエサル(27歳)が任命された・・と言う知らせが入る。そして、帰国。

⑧後にカエサル三頭政治」を始める2人。ポンペイウス名声を嫉妬される・図-4)クラッスス(手段を選ばぬ蓄財を軽蔑される)。前者は35歳でスペインから凱旋、後者はスパルタクスの乱を収拾した43歳。共にスツラ門下の俊英と見られていたが、仲が悪かった。

⑨ロ-マの政治的な最高地位は執政官で任期1。(軍事的な指揮も兼ねる)執政官立候補者を決めるのは元老院、だが決定は市民集会での投票だった。ロ-マは法律の国であった。

 当時、30歳のカエサルを有名にしたのは派手な生活ぶりと、その結果である膨大な借金であった。借金総額は11万人の兵士を1年間雇える金額であった。使い先は自分のため(読書やおしゃれ)、友人付き合いのおおらかさ、愛人へのプレゼント代であった。出世は遅れたが会計検査官を勤め上げ、自動的に元老院議席を得た。31歳。

借金で公共事業(戦勝記念碑建立)を行うなどで、ロ-マ庶民はカエサルを自分たちの希望の星と見るようになって行く。

カエサル遂に立つ。37歳。大物2人を相手に最高神祇官選挙に立候補する。そして、当選。カエサルは公邸に住まいを移した。暗殺されるまでここに住む。

カエサルと女。カエサルは何故あれほど女にモテ、しかもその女達に誰1人からも恨まれなかったのか?上流階級夫人をを総なめして、借金をさせて貰った。恨まれなかったのは、女を傷つけなかったからである。誰も切らなかった。そして、カエサルは愛人の存在を誰にも隠さなかった。

カエサルと金。多額の借金は債権者に取って悩みの種になる。債務者が破滅しないように全力で債権者が助ける。しかし、カエサル自分の資産を増やすことにこの借金を使っていない。自分の墓さえ関心がなかった。事実、彼の墓はない。

⑬「三頭政治」成立へ。BC60年。ポンペイウスクラッススカエサル三者が話し合いで連合(選挙と政策での利益誘導)する事になった。カエサルからの提案である。40歳。そして、カエサル執政官就任。久々の急進派の登場。不安を抑えるため、元老院会議を公開にしてしまった。「農地法」改革も行ったが、元老院派の強い反対に出会ったが、市民の応援もあって成立。

ガリア属州総督へガリア全体の統治の責任者である総督、任期5年、4個軍団、幕僚任命権はカエサルに・・の4項を元老院に法により認めさせた。

 

6.ガリア戦記。何もかも正直に、公平に記述してロ-マへ報告した。名文であることが有名

①「ガリアは、その全てを含めて、3つに分かれる。第一は、ベルギ-人の住む地方、第二は、アキテ-ヌ人の住む地方、第三は彼らの呼び方ならばケルト、我々の呼び名ならば、ガリア人が住む地方である」前書きなしに始まる。簡潔、明晰、洗練されたエレガンス。

②当時のガリアの状況。未開拓で森林、河川が耕地より多かったが、水が豊かで気候も厳しくない。人口にも恵まれ、1200万の人口でも養っていける農産物、家畜を産した。勢力の強い部族は10以上、小部族まで入れると100以上の部族に分立していた。ライン河の東では気候が厳しく、食べて行けなくなった人々の目が、食べていける地方に注がれるのは自然の勢いであった。ガリア全図-2参照。

ガリア戦役1年目~6年目は図に示す通りの行程である。ガリアに及ぶ地域をロ-マ化(文明化)する事にしようと考えた。カエサル42歳から47歳になる。カエサルの行った、特記すべき事を下記する。ローマ軍兵士図-3、ガリア戦士図-5参照。

・戦闘指揮と同じ程度の重要さで兵糧確保(兵站・ロジスティックス)を行っている。  

「戦争は、死ぬためではなく、生きるためにやるのである」

・ロ-マ軍の投げ槍は先端が撓うように鉄が使われていて、敵の盾を貫いた時に曲がり槍が抜けなくなっていた。2mの長さの槍を付けたままでは盾の用をなさずそれを捨てて盾なしで戦わざるを得なかった。

・負ける戦いがあっても、カエサルの演説はよく伝わり、全兵士の士気は一変したという。

カエサルがロ-マに居ない間「元老院派」を釘付けにしておくよう護民官クロディウス(就任に協力)に監視させていた。特に、キケロ

カエサル(総司令官)の責務は戦場を馬で走り、離れた軍団を適所に送り込んだり、全体を見て適材適所に兵を動かし戦力の効率を上げた。(現場主義)

・降伏をしてきた部族に対しては、人質を取らず、講和を認め、彼らの土地に帰って住む権利も認めた。更に、他の部族に対し敗者を侮辱したり、攻めたりしてはならない・・と命じた。(寛容の精神)

・ローマの技術力として、兵を工兵に変えて、大掛かりな攻城兵器を作って敵に見せつけた。ローマは土木技術に優れていたライン川渡河には木製の橋も作っている。

・部下の上げた功績ははっきりそのことを明記している。(公平でオ-プン)

戦役4年目にはブリタニア(英国)に進出。お試しであったが、潮の干満差で船を流され失敗に終わりガリアへ引き返した。

 

7.「三頭政治」の一角、クラツスス。ローマ最高の富裕者。彼は60歳代に入っていたが、ポンペイウスカエサルに比し軍事上の名声に欠けていた。シリア属州総督5年目で焦っていたのだ。

総司令官に求められるものは、戦略思考だけではない。戦場に兵士たちを従えて行く人間的魅力や人望である。これがクラスッスに欠けていた。

①そこで彼は、BC55年パルティア遠征(図-7を行った。元アレキサンドロスが支配した地域である。

②金持ちは自腹を切るのが不得手で、行軍途中で略奪をしたのである。総司令官の振る舞いは自然に兵士に感染する。略奪集団と化したのである。

相手が準備していなかった初戦の成功はあったが、情報軽視のため失敗に終わるのである。

③迎え撃つパルティアにはスナレスという青年貴族がいた。かれが戦略を担当した。

軽装騎兵(図-8)ばかりの彼の工夫は、弓を軽くして弓なりを2つにして鉄片で補強して射程距離を3倍にし、更に矢を打ち尽くした後、らくだの背に矢を山と積ませて同行させた。

④これで、ロ-マ軍は混乱し退却となった。そして、講和の会議の最中に小競り合いが起こりクラスッスは死んだ。スナレスも名声が自分のそれをしのぐのを恐れた王オロデスが事故を装って殺させた。これで、ローマは2頭となり、カエサルの存在が大きくなっていく

⑤いまだ53歳のポンペイウスだが、海賊一掃当時の果敢さは消え優柔不断になっていた。

元老院派は名声を見込んで自派に引き込もうとするが、はっきりした態度を示さなくなった。

8.ガリア戦記7年目。全ガリアとの戦いとなったアレシア攻防戦。図-10参照。

①オーブエルニュ族は「長髪のガリア」では最も南に位置する部族である。これまではカエサルに反抗したことのない人々であった。しかし、ブエルチンンジェトリックス(以降ジェトリックス・図-9)と言う30代半ば若者がガリア全域に反ロ-マ決起を促す使節を送った。この若き総大将は、厳罰主義で戦うことを決意した。これが、分離しがちなガリア人を統合し総決起を促すことになった。カエサルは敵軍が南仏属州むけ接近中との情報を受けるや、新編成の一個軍団を配して攻めに転じた。これに脅えた北から来たガリア人は攻撃を諦めた。(南北の兵を分断に成功)

ガリア側は「ブル-ジュ」と言う町(難攻不落な要塞)にこもった。(ジェトリックスの基地は24km離れていた)食料調達の不安のある中、カエサルは攻城設備(図参照)を行い、ガリア側は篭城に絶望して来る。それを知るや、朝方から激しい雨の日に総攻撃に入る。抑えられていたロ-マ軍の戦闘意欲が一気に爆発した。これにより、4万人いた住民の内、生存者は初期に逃げ出した800人のみ。ローマの勝因は技術力にありローマに付くべし・・を示した。

③最後は、ジェトリックスはアレシアと言う町を選ぶ。この町は全ガリア人の信仰を集める聖地だったからである。無論、町は城壁で囲まれていた。アレシア攻略全体図とカエサルが築いた包囲網の防衛土木工事の内容については図- に示す。完成まで1ヶ月であったと言う。ガリア側は8万の兵に町の住民の食料が底を付き始めていた。外部の情報も入らなかった。

④実はこの間ガリア側救援軍の編成は進んでいたのである。総計、歩兵25万、騎兵8千にのぼった。全ガリアがカエサルに抗して立ち上がったのである。4人の司令官に中部フランスを埋める勢いでアレシアに向かった。BC52年9月、到着。ジェトリックスと8万の篭城兵は狂喜した。カエサル5万の兵力で内外34万の敵と戦うことになった。

⑤最初は、騎兵集団の戦闘から始まったが、結局ガリア兵は外も内もカエサル包囲網を突破できなかったカエサル側の兵士が命令されなくとも動くよう良く訓練されていたからである。正午、アレシア攻防の幕が3箇所で同時に切って落とされた。カエサル赤マントをつけ騎兵を連れて白兵戦に突っ込む。

⑥結局、ガリア側は総崩れとなり、ジェトリックスは他の人の助命を願い、自ら進んで捕らわれの身となった。アレキサンダ-大王に匹敵する勝利であった。

⑦ジェトリックスはカエサル凱旋式が挙行されたBC46年、凱旋式に参列した後で殺された。生かしておいては、危険過ぎる有能な人材であったからである。

カエサルが書いた「ガリア戦記」は7巻(BC52年)で終わっている。この年の終わりに「ガリア戦記」7巻を刊行している。彼の同時代の人と違って、元老院(反カエサルの人が多かった)よりも市民の支持に賭けたからである。

 

9.戦後処理

①戦後処理1、ペルシャ帝国だけが相手だった、アレキサンドロスに対して、100もの部族が乱立するガリアの統一は大変だった。ガリア4大部族は直ぐに恭順(指導者層の温存を認め誓約を結ぶ)してきたが、中程度の部族がカエサルの任期切れを狙っていた。そこで、略奪、焼き討ち、水責めなど残虐な見せしめも行っている。

②戦後処理2、私有財産や神様を認める、と同時に生活の豊かさを求める民であったので、町や文化を残し、道路などインフラ整備を行うに留めた

③部族の指導者階級の子弟は人質として、実態はホ-ムステイとしてロ-マで学ばせる

④税制の改革。ガリア全体で一定額と決めた。税制はガラス張りとなった。

⑤こうして、ガリアにロ-マ兵は1人もいなくなった。それでも、ガリア人による反ロ-マの武力行動は全く起こらなかった。帝政時代を通じてガリアは「ロ-マ化」の優等生であり続けたのである。

 

10.ルビコン川(図-11,12を渡るまで。

元老院には、一般市民を熱中させるカリスマ性のある指導者に欠けていた。 そこで、ポンペイウスを取り込み、カエサルを孤立させようとしていた。危険な存在だった。一方、

カエサルの考え---6世紀続いてきた寡頭共和制超大国になった前1世紀のロ-マの現状には適さなくなっていた。それに代わる秩序を確立する必要を痛感していた。→帝政

②ローマ法では、軍勢の指揮権を与えられている者は首都の城壁内に入れない事になっていた。執政官に立候補すれば、旧部下達がこぞって投票するから当選確実だが、そうなっても、6ヶ月間丸腰にならざるを得ない。

カエサル情報収集力とそれを基にした出先機関の活用の才は驚くばかり。戦闘中でも、首都の情勢の変化は完璧に通じていたし、属州統治も見事に機能し続けていたと言う。

カエサルの長い手」があった。反カエサル派の若手護民官(クリオ)の才能を評価して味方に付けカエサルの利益を守らせている。

元老院最終勧告」が成立した。ガリア属州総督は、元老院の帰国命令に服すこと。

ルビコン川を前にして、カエサルは迷うのであった。国法を犯して(国賊)まで決行することによって生ずる結果を思ってのことである。すなわち、起きることが必至の内戦である。しかし、カエサルは生涯、自分の考えに忠実に生きることを自らに課した男であった。

「賽は投げられた」先頭で馬を駆るカエサルに続いて一団となってルビコン川を渡った。BC49年一月十二日、カエサル50歳と6ヶ月の朝であった。図-12 参照。

 

 

                       以上