カエサルⅡと初代皇帝アウグストウス

<読書会資料3>カエサルルビコン以後アウグストウス誕生まで 2019/3/4 あらまき

 

カエサルはロ-マの政治の仕組みを変えた創業の人

アウグストウスはカエサルの戦略に従ってロ-マの帝政を根付かせた守成の人である。

以下にそのプロセスを示そう。

 

1.元老院最終勧告」(軍団解散・帰国を命じ、服さなければ国家の敵とみなす)が届く前にルビコン川を渡ったカエサルの軍団はたったの4500人。

2.なのに、最終勧告を持参した者たちがロ-マに帰ったときはポンペイウス、現職執政官2人(反カエサル派)も多数の元老院議員(反カエサル派)がロ-マを逃げ出していた

3.カエサルは南下し(図-1)ロ-マにも寄らずに参加する兵士を増やしながらイタリア全土を一気に征服した。ポンペイウスは、自分の支持基盤(クリエンテス・図-2)であるスペインへ逃げて態勢建て直しに入る。陸上戦力10対2で劣勢にも拘わらず、カエサルは敵の食料と飲料水を絶つ戦略に出て降伏させる。内戦のため戦を避け、軍勢を解散すれば兵の命を保証した。これで、ポンペイウス側は降伏、全軍が解散した。開始から1ヶ月であった。

しかし、この間に兵士の従軍拒否ストライキ)にも会っている。カエサル(図-3)の信頼が一番強かった軍団・部下からである。長い戦いで信頼度が増すと同時に親密度も増すためであった。新密度は限界を超えれば「甘え」に変わるのだ。兵士は即時退役を要求してきた。

カエサルの対応は、「要求の受け入れ拒否」であった。

4.ポンペイウスはエジプトへ逃げたが、ロ-マの内戦に巻き込まれたくないエジプトによって殺された。「アレキサンドリアで、ポンペイウスの死を知った」とカエサルが書き残している。

5.そして、BC48年にカエサルは執政官になる。正当な政府がカエサルのものとなった。

6.クレオパトラ7世(図-4。アレキサンドロスの遺産であるプレトマイオス朝はクレオパトラと弟との共同統治下にあった。しかし、弟王の方が優勢でクレオパトラアレキサンドリアを追われていた。

敷物に巻かれたプレオパトラが宮殿の侵入するのに成功しカエサルと出会う。

「据え膳喰わぬは男の恥」とするカエサルは、即愛人関係になり、女王に復帰させた

21歳の美しき女王は自分の魅力に惹かれたのであろう・・と考えたのだが、カエサルは「愛しはしても、溺れない性格」であった。これは後に遺言状が公開されて本音が分かる。

カエサルに取っては、ストレスの解消のための愛人関係だったらしい。2人の間にはカエサリオン(シ-ザリオン)と言う息子も生まれている。

7.後に、カエサル亡き後カエサルの部下(NO.2)であり、後継者として最短距離にいた人物がマルクス・アントニウス(図-6左)である。しかし、カエサルはこのアントニウスの統治能力の限界を見抜いていた。

 

8.54歳のカエサルは今や独裁官10年任期)として絶対権力を手中にしていた。行った事業は以下の通り。

①国家改造:「寛容」(クレメンティア)を掲げ、一致団結して国家ロ-マの再生に力を尽くす。→これは、彼の死後アウグストウスの手で成る。共和制から帝政へ。

暦の改定:カレンダ-は大陰暦(1年は355日)であったものを現代の365日に改めた。

 「ユリウス暦」と言う。BC45年・1月1日からスタ-トした。今に残るもの。

③通貨改革:ロ-マの通貨を基軸としながらも、従来の通貨との併用も許した。生きている彼の横顔を彫らせて通貨としたのはカエサルが最初である。

④帝国へ:広大な領地の統治が機能的になされるためであった。600人の元老院から1人の帝政へ。元老院は17人の「10人委員会」へ変えた。

⑥市民権問題:カエサルガリアを含む属州の自由民にロ-マ市民権を与えた。「開放奴隷」の登用も行っている。例:国立造幣所のトップ3人がカエサル家の奴隷だった。

⑦属州統治:多民族、多文化、多宗教、多人種、多言語の集合体の統治である。

 移動を容易くするため、ロ-マ街道を全属州に網羅した。統治の鍵は、分権の範囲と税制、宗教の問題だった。属州税は収入の10

 宗教はロ-マは元々多神教であったので、一神教であるユダヤ教すら許した。ロ-マの宗教を明確にするため、主神を最高神ユピテル、その妻ユノ-、そしてミネルブァ女神の三神(図-5)と決めた。ギリシャ圏では、もともとこれ等はギリシャ生まれだったので簡単だった。

ギリシャ語に戻って、ゼウス、ヘラ、アテネ神を祭れば良いからである。

⑧司法改革:ロ-マの司法の最重要事項は、控訴権と陪審員2であった。

 「元老院最終勧告」を元老院から取り上げた。ロ-マ市民ならば、裁判なしで死刑になることは無くなった。陪審員は階級に関係なく、ある一定額以上の資産があればロ-マ市民なら誰でもなれることになった。

⑨その他、失業対策、福祉政策、殖民政策、交通渋滞対策・・・まで行っている。(笑)

教師と医師について、その職業の重要さを歴史上初めて認めた人である。教師と医師に全員ロ-マ市民権を与えることにした。市民権は属州税(10%)の免除、ロ-マ法による個人が安全保障される・・と言う利点があるのだ。

 

<ここでお休み・・>

カエサルクレオパトラのナイル河ラブラブ旅行:宮尾登美子著の本が出ています。

朝日新聞に連載されたものです。

ユリウス暦クレオパトラのお陰で出来たものです。当時のロ-マは355日/年、エジプトが365日/年を暦としていました。暦の月の名前に人名が付いている月は?

③ヨーロッパではカエサルが暗殺された3月15日は特別な日だそうです。

 カエサルは自分が暗殺されることを知っていたか?

 

9.結局、カエサルは終身独裁官に就任したが、執政官マルクス・アントニウスの提案である王になることは拒絶した。しかし、その日から「カエサルが王位を狙っている」と言う噂が付きまとうようになった。

そして、1ヶ月後の3月15日に元老院の議場で「国家の父」は暗殺されたのである。

55歳。実行者は14名、刺し傷23箇所、しかし、致命傷は胸1箇所のみ。当事者全員、呆然自失!全員が一目散に逃げた。「ブル-タス、お前もか・・」はカエサル最後の言葉として有名だが、本書には記述がない。後のシェクスピアによる創作らしい。

マルクス・ブル-タスはカエサルの愛人の子でカエサルが面倒を見ていた。暗殺者にたいするロ-マ市民の支持はなかった

カエサルは生前言っていた。「私が自分に課していることは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている。私と共に、私の目指す事業の完成に協力してくれたら、どれだけ喜ばしいことか・・・」・・と述べている。

 

10.暗殺者達:首謀者はカシウス・ロンジヌス(クラッスス派では軍の壊滅の際逃亡、ポンペイウス派につき降伏、カエサルの寛容で許されたのに、信頼されず出世できないと逆恨み)自分の不満だけでは、人が付いてこないと判断。

マルクス・ブル-タス(図-6中央)をリ-ダ-に押し上げた。ロ-マの公益を重視する潔白な無欲の人だから。その他「カエサルに許された旧ポンペイウス派」9人、カエサル派も4名いた。計14名。キケロ(共和制維持派・図-6下)は裏で思想面で暗躍。当時、カエサルキケロ沢山の書簡をやり取りしており、それが残っている。

カエサル派4名はガリア戦役、内戦時代にカエサルの部下で共に戦ってきた人達であった。「怖れをなしたカエサル派」と歴史家は分類している。信長に対する明智光秀の心境か?

これらの人達は2年以内に全て殺されてしまう!

11.遺言状公開カエサル亡き後、ロ-マの最高位者(共同執政官)になったのは、アントニウスである。彼の見守る中で、遺言状が公開されたカエサルの妹の娘の子、 

オクタビアヌス(未熟な18歳・カエサル家で育つ・図-7))を養子とし後継者に指名していた。死の6ヶ月前に書かれたものであった。

 開封された結果、最も失望したのは、アントニウスクレオパトラの2名。

当時のクレオパトラカエサルとの間に生まれたカエサリオンを伴ってロ-マに滞在中だった。遺言状では、クレオパトラもその息子について一言も述べられていなかったからである。

また、アントニウスの失望、はカエサルの右腕である自分こそがカエサルの後継者にふさわしいと信じていたからである。

 12.オクタビアヌスは若すぎたがカエサルは後15年は生きられる・・と思っていたようだ。カエサル平時の統治の才能あり・・と見抜いていたが、軍事面の才能不足も見抜いており、アグリッパと言う軍事的才能のある若い兵士をオクタビアヌスに付けていた。

 

13.アントニウスは野心を隠しながら、元老院会議を召集、暗殺者の刑事上の罪を追及しない代わりに、カエサルの決めた要職人事やカエサルの進めてきた政治を継承すると決めた。キケロ曰く、「何のための殺害であったのか!」と嘆く。(共和制にもどしたかったのであろう)

14.カエサルの墓はない。火葬されたが、激しい雨で遺灰が流されてしまったから・・?

15.オクタビアヌスアントニウスに対し礼を尽くしつつ、カエサルの遺志を継ぐと明言した。彼にはカエサルになかった資質があった。それは偽善(人のために善きことをする)だった。

16.暗殺者達:ロ-マは身の危険。別荘ですら危険になってきた。暗殺後になにをするか・を決めないで実行したことが間違いの基であった。

 オクタビアヌスが主催したカエサル記念の競技会の成功は暗殺者にもアントニウスにも心に影を投げかけることになった。アントニウスは暗殺者に接近し、カエサルの残した軍団が自分に従わぬため海外脱出する。オクタビアヌスを支持する軍団が増える

そして、民集会の圧倒的な支持のもと、19歳と言う前代未聞の執政官が誕生した。

そして、復讐が始まった。

17.第二次三頭政治が始まる。筆頭格はアントニウス、レピドウス(カエサルの副将だった人・温厚)そして、オクタビアヌス三頭政治の当面の課題は、①「処罰者名簿」の作成による、反対勢力の壊滅。②アントニウスオクタビアヌスは共同でブル-タス、カシウスを撃破する・・ことだった。「寛容」は「復讐」に代わったのである。

①は300人(筆頭はキケロ)の元老院議員と2千人に登る騎士階級(経済界)の名を連ねた。国家の敵として裁判なしの即・死刑と決まった。処刑は厳密に実施された

18.キケロの死:生きる気力を失っていた。アントニウスの命令で首と右手はフォロ・ロマ-ノの演壇の上にさらされた。(日本の獄門) 後に、老アウグストウスは孫達に「教養はある人だったよ。そして、深く国を愛した人でもあった」と述べている。

19.カシウスとブル-タスの死:彼らはギリシャやシリアへ逃げ、軍備を増強した。しかし、生きる意志を失っていたのであろう・・アントニウスオクタビアヌス連合軍にフィリッピと言うところで戦いに敗れ、自死を選んだ。ブル-タス43歳であった。

時代の変化を見ようとしなかった高潔な人の悲劇であった。

20.アントニウスクレオパトラオクタビアヌスBC42~30年)

①第一人者アントニウスが自分はロ-マ東方を担当、オクタビアヌスは西方を担当することに決めた。自ら東方を選んだのは、カエサルが果たせなかったパルティア遠征を目論んだからである。これに成功すれば、ロ-マ帝国は己のものになるからであった。東方の属州税額は西より大きかった。金の力で軍隊を増やそうと考えた。

 西方はポンペイウスの息子が海軍を持っており、このやっかいな敵を相手にしなければならない。しかし、西にはロ-マ本国を含んでいた。また、兵士を集めるのに有利でもあった。この有利さにアントニウスは気がつかなかった。

 

21.クレオパトラ:ロ-マの同盟国のエジプトの女王(当時28歳)であったクレオパトラアントニウス(当時41歳)をエジプトへ招待し愛の女神「ビ-ナス」に扮して、おもてなしを行っている。カエサルが生きていた頃、この女王は上司の愛人であった。アントニウスは平民階級の出身であり、戦場での才能は優れていたが、身に備わった品格により人を従わせるタイプではなかった。これで、勝負あり。色香に酔つぱらってメロメロになる。(笑)

結局、2人は結婚へ。既に2人の間には双子の子がいた。これが、破滅の第一歩となっていく。2人の横顔を彫った記念銀貨(図-9)が出ている。

22.パルティア遠征:パルティア(前のペルシャ)まで領有したいと言う野心を持ったクレオパトラの影響(動機が不純?)でアントニウスは遂に立つ。4年間待ったことになる。

この間、パルティア側は軍の主力を大槍の重装騎兵から弓を使う軽騎兵に変換していた。これを、アントニウスは見逃していた。

23.アントニウス軍重装歩兵6万、オリエント同盟国から4万、スペイン・ガリアからの騎兵1万計11万。対するパルティア側総勢4万騎。指揮はギリシャから帰化したモネスス。結局、パルティア軍はロ-マ軍の物資輸送隊を攻撃し、補給路を断った

冬を迎えて(8ヶ月間)撤退した時にはロ-マ軍は2/3に減っていた。このアントニウスの失敗は1ヶ月後にはロ-マに知れ渡る。落胆し、自信を失ったアントニウスの下にはクレオパトラが励ましに駆けつける。そして、アレキサンドリア凱旋式を行った。これは、ロ-マ人の気持ちを逆撫でするもので、アントニウスの人気は落ちるばかり・・となった。

24.そして、両者対決へ:オクタビアヌス30歳になっていた。ロ-マ本国の全地方自治体はオクタビアヌスを「国家ロ-マを守るため敵エジプトを攻める軍の最高司令官」に選出した。こうして、ロ-マとエジプト間の戦争にすり替わった。

25.BC31年9月2日の朝史上「アクティウムの会戦」(図-10)と呼ばれる決戦の火蓋が切って落とされた。450隻と400隻の激突。地獄の光景がくり広げられた。(海軍の方が残酷)

風向きの変わるのに合わせて、アントニウスに相談も無くクレオパトラが戦線から逃亡。もしかしたら、勝てたかもしれない決戦を、中途で放棄したのであった。

26.王宮で再会したアントニウスクレオパトラは励まし続けたが、兵士の離反は止まらなかった。アントニウスオクタビアヌスへ手紙を書く。クレオパトラを助けて欲しいと。返事はなかった。アントニウス自死を試み、クレオパトラの胸の中で死ぬ

27.オクタビアヌスクレオパトラは王宮で会う。カエサリオン(17歳)はオクタビアヌスの命で殺された。あとの子供たちはロ-マで養育されることになった。(どうせ、エジプト王にはなれない)

クレオパトラの運命は、ロ-マに護送され、オクタビアヌス凱旋式で最高の見世物となり、後は田舎で年金生活を送る・・となる。

28.クレオパトラ自死を決意する。BC30年、300年続いたギリシア系のプレトマイオス朝(アレキサンドロスの遺産)はこれで終わったのである。エジプトは以降皇帝の属州となる。そして、カエサルが打倒した共和制から帝政ロ-マが始まるのであった。オクタビアヌス初代皇帝アウグストウス(敬称)。彼がカエサルの考えをロ-マに定着させたのです。偽善によって・・。共和制まで復活(表向き)させている。軍縮国勢調査も実施している。そして、パスク・ロマ-ナ(ローマによる平和)が始まる。

 

<お休み2>

クレオパトラ7世は世界3大美女の1人であったのか?貨幣の横顔はそうは思えない。→しかし、私はル-ブルの肖像展を見ました。クレオパトラ1世の肖像がありました。仏様のように綺麗な子顔の女性でした。実は、クレオパトラ7世は弟であるプレトマイオス13世、14世とも結婚しているのです。兄弟-姉妹婚の理由は何か?

当時のエジプトにもギリシャにも、兄弟-姉妹の例はなかった。後に、先の王と后を神格化してイメ-ジを作り、現在の夫婦を前の夫婦の生まれ変わりに見せるためだったそうな。

クレオパトラは何故自死を選んだのか?

ユダヤ人を今のイスラエルから2000年前に追い出したのは誰でしょう?

カエサルの残した有名な言葉:「人間ならば誰でも、現実の全てが見える訳ではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない

                     以上