賢帝が続きロ-マは最盛期へ

<読書会資料4>                 2019/3/21 あらまき

 

「ロ-マ人の物語Ⅸ」(塩野七生著)より

初代皇帝アウグストウスについで、3代カリグラ(小さな軍靴・図-1)、5代ネロ(ローマの大火・タレント皇帝・図-2)と愚かな皇帝も出たが、ロ-マの帝政はびくともしなかった。 

そして、5賢帝の時代が始まる。内でも、13代皇帝トライアヌスから14ハドリアヌスを経て、15アントニウス・ピウスに至る賢帝が有名である。「稀なる幸福の時代」になった。しかし、次の16代哲人皇マルクス・アウレリウスの次の息子コモドウスの頃から古代ロ-マの「終わりの始まり」になるのである。

                 (記)

1.ロ-マの皇帝とは:ローマ帝国主権者である元老院とロ-マ市民から政治を託されたロ-マ市民中の「第一人者」に過ぎない。

2.皇帝トライアヌス(在位AD98~117年・図-3):①皇帝としては初の属州出身の皇帝であった。

先帝ネルバァ(5賢帝最初の皇帝・高齢で短期)軍事体験の無い人であったので、トライアヌス養子に迎え後継者に指名した。

最初は謙虚に地味に振舞っていたが、アウグストウスの遺言に初めて反してドナウ河下流に住むダキア(今のル-マニア)民族と戦闘に入り勝利した。この時、トライアヌス52歳、部下で幕僚のハドリアヌス(図-4)30歳。帝国の運命を託すに最適な人であった。属州出身なるが故に面倒見が良く、勤勉な人であった。治世中に帝国の版図は最大(図-12になる。

②そして、帝国全域で実用的な公共事業を行った。「トライアヌス浴場(バチカンの至宝・ラオコ-ンの群像(図-8)あり)」や「「トライアヌスの市場」などである。

ロ-マ人の考えていたインフラは、「トライアヌスのフォ-ルム」、街道(有名なのはアッピア街道・図-9)、橋(図-10)、港、神殿、公会堂、広場、劇場、円形競技場、公共浴場(皇帝から奴隷まで一緒に裸の付き合い、男は日の出から午後1時まで働く)、水道(水道橋)など。公共事業の財源は金、銀が産出される上記ダキアの鉱山ダキア王の莫大な財宝であった。

③そして、パルチィア戦役を実行(図-12したのである。アレキサンダ-大王を彼が意識していたとすれば、東西の人、物の交流の促進に魅力を感じたからではないか・・これは想像である。パルティアに就いては、初代皇帝アウグストウスが相互不可侵&通商の自由を認める外交で解決していた。それから70年後になる。AD114年春、防衛をハドリアヌスに託したトライアヌスはアンティオキアを出発する。主戦力5.5万、補助戦力を加え10万であった。

これが実現していたら、彼は「至高の皇帝」になったであろう。しかし、結論を言えばそれは夢で終わった。戦いの4年が過ぎ小アジアで病没する。

 

④ 私人としてのトライアヌスはどうか?甘い汁を吸おうとする親族・肉親なし。子に恵まれなかった彼には姉マルチァ-ナ、妻のプロティナの2人の肉親がいたが、2人とも「出しゃばらない女」の典型であった。自分の事は公正明大だった。親族に対しても特別待遇を全く与えていない。欠点は酒飲みなだけ。頑張った治世20年。

3.皇帝ハドリアヌス(在位AD117~138年・図-4):①スペイン出身で先代トライアヌスのNO.2の武将であった人である。ハドリアヌスを後継者として指名したかどうかは不明である。

しかし、ハロリアヌス以上の適材は、当時の指導者層の中にいなかった

結果的には、カエサルに匹敵する業績をあげた人である。ギリシャ好きから、初めてあごひげをはやした皇帝でもある。

②彼は帝国の安全を守るため、パルティア戦役の収束を図り、反ハドリアヌスの陰謀を企てた執政官経験者4人を粛清する。その後は「寛容」「融和」「公正」「平和」をモット-に統治を行った。すなわち、AD121年を皮切りに長い視察巡行の旅(図-6)に出る。21年間の治世の内7年しか本国イタリアに居なかった。1に安全保障、2に属州の統治3に帝国全域のインフラ整備が債務であった。彼は現場現物主義者であり、人気よりも業績を重んじた指導者であった。皇帝に同行するのは、宮廷人などではなく、建築の専門家集団の少人数であったと言う。ブリタニア(今のイギリス)のハドリアヌスの防壁は有名。各地の兵隊に対しても軍事訓練を怠らなかった。各種兵器の飛び距離と構造を図-11に示す。

③AD115年と131年にユダヤで反乱が勃発。前者はトライアヌスがパルティア戦中に背後を襲ったものでロ-マ側の怒りは激しかった。そして後者は、ローマ軍が勝利する。ハドリアヌスユダヤ人を強制的に「離散」させた。キリスト教徒はロ-マの統治に反抗していなかったのでイエルサレムに住むことができた。

ハドリアヌスの別荘(図-7)や浴場は有名だが、家庭事情は複雑で寵愛した美少年アンティ-ノ(図-5)がいた。妻はいたが、子供はいなかった。

ロ-マ法の集大成を行っている。帝国の防衛線を廻り悪法化したものは廃棄し、必要なものは新たに制定した。

⑤60才を越えたハドリアヌス(体力の減退とやることが無くなった精神の張りのゆるみ)の後継者選びは、養子に迎えたアントニヌス・ピウス(中継ぎ)であった。皇帝ハドリアヌスマルクス・アウレリウス(本命・図-14)を養子に迎えることを条件にアントニウス・ピウス(図-13)を後継者に指名した。完璧主義の表れだった。

4.皇帝アントニヌス・ピウス:23年間に渡る治世は、「新しいことは何もしない」慈悲深い皇帝(図-13)であった。統治される側にとって、幸福な時代であった。ブリタニアハドリアヌスの防壁の北にアントニヌスの防壁を作ったくらいである。

 南仏の出身で祖先はガリア人であり、市民に配る下賜金も私産から出し、壮麗な別荘を建てることもしなかった。帝国巡行はせず、ロ-マから統治を続けた。公正で透明なことを志した人格者であった。

 幸運で、幸福な23年のあとAD161年春74歳で没。その治世で何も問題が起こらなかった。40歳まで、アントニウス・ピウスの側近として仕えてきたのが、次のマルクスである。

5.皇帝マルクス・アウレリウス(図-14):哲人(ストア哲学)皇帝として名高い人である。「自省録」を残す。この本は4月にNHKの「100分で名著」で放映されている。自省録最後の結論は、「今日一日に最前を尽くせ。目標は今日の目標である」でした。

 しかし、先帝と異なり19年に亘る治世は多難な治世になった。

 飢饉、河の氾濫、蛮族の侵入、東方でパルティア戦役が始まる。だが彼には軍事上の経験がなかったのだ。

 そして、気質的には軍事に不向きな人にしては、戦争ばかりの19年であった。彼は前線で死を迎えたロ-マ皇帝の最初の人となった。AD180年、59歳。

 

6.そして、息子コモドウス(図-15)に後が引き継がれる。かの、映画「グラディエ-タ-」で知られる人で、なすべき事を何もせず剣闘試合や競技会に熱中した。 悪いことに、治世は12年に及んだ。

 やがて、元老院は満場一致で、前皇帝コモドウスを「記録抹殺刑」に処すことを可決した。ネロ、ドミティアヌスに次ぐ3人目であった。

7.こうして、5賢帝後のロ-マは衰亡の坂を転げ落ちて行く。終わりの始まりである。

8.AD324年、コンスタンティヌス、首都ローマを離れ、新しい首都コンスタンティノ・ポリス(今のインスタンブ-ル)にて、新しい宗教による新生ロ-マ帝国(東ローマ・ビザンチン帝国)を創生(再生)して行こうとする。

東・西2つのロ-マが誕生する。西こそロ-マであるが、AD476年滅亡。蛮族による滅亡ではなく、同胞である東ロ-マの侵攻(ゴート戦役)による滅亡であった。

そして、東ロ-マではキリスト教の公認・勝利へ。

<しばらく休憩>

①ナポレオンは英雄と呼ばれるのに、アドルフ・ヒトラ-(第3帝国)は何故英雄と言われないのだろうか?

②東ロ-マの国教がキリスト教になったとき、皇帝の立場はどう変わったのでしょうか?

③5人の賢い皇帝が何故続いたのでしょうか?

福沢諭吉は「学問のすすめ」の中で、「普通の人を育てたい」と書いています。慶応大学の建学の精神ですね。「普通の人」とはどんな人のことでしょうか?

⑤同じく、在日韓国人でありながら、東大の先生も務めた政治学者・羹尚中(カンサンジュン・図-16)さんは2019/3/25の朝日新聞の中で、「政治を自分の事としてとらえる力を身に付けて欲しい」と言っています。何故でしょうか?黒柳徹子さんが90歳になったら、これからの人生では、「政治を取材したい」と述べていました。   以上