賢帝が続きロ-マは最盛期へ

<読書会資料4>                 2019/3/21 あらまき

 

「ロ-マ人の物語Ⅸ」(塩野七生著)より

初代皇帝アウグストウスについで、3代カリグラ(小さな軍靴・図-1)、5代ネロ(ローマの大火・タレント皇帝・図-2)と愚かな皇帝も出たが、ロ-マの帝政はびくともしなかった。 

そして、5賢帝の時代が始まる。内でも、13代皇帝トライアヌスから14ハドリアヌスを経て、15アントニウス・ピウスに至る賢帝が有名である。「稀なる幸福の時代」になった。しかし、次の16代哲人皇マルクス・アウレリウスの次の息子コモドウスの頃から古代ロ-マの「終わりの始まり」になるのである。

                 (記)

1.ロ-マの皇帝とは:ローマ帝国主権者である元老院とロ-マ市民から政治を託されたロ-マ市民中の「第一人者」に過ぎない。

2.皇帝トライアヌス(在位AD98~117年・図-3):①皇帝としては初の属州出身の皇帝であった。

先帝ネルバァ(5賢帝最初の皇帝・高齢で短期)軍事体験の無い人であったので、トライアヌス養子に迎え後継者に指名した。

最初は謙虚に地味に振舞っていたが、アウグストウスの遺言に初めて反してドナウ河下流に住むダキア(今のル-マニア)民族と戦闘に入り勝利した。この時、トライアヌス52歳、部下で幕僚のハドリアヌス(図-4)30歳。帝国の運命を託すに最適な人であった。属州出身なるが故に面倒見が良く、勤勉な人であった。治世中に帝国の版図は最大(図-12になる。

②そして、帝国全域で実用的な公共事業を行った。「トライアヌス浴場(バチカンの至宝・ラオコ-ンの群像(図-8)あり)」や「「トライアヌスの市場」などである。

ロ-マ人の考えていたインフラは、「トライアヌスのフォ-ルム」、街道(有名なのはアッピア街道・図-9)、橋(図-10)、港、神殿、公会堂、広場、劇場、円形競技場、公共浴場(皇帝から奴隷まで一緒に裸の付き合い、男は日の出から午後1時まで働く)、水道(水道橋)など。公共事業の財源は金、銀が産出される上記ダキアの鉱山ダキア王の莫大な財宝であった。

③そして、パルチィア戦役を実行(図-12したのである。アレキサンダ-大王を彼が意識していたとすれば、東西の人、物の交流の促進に魅力を感じたからではないか・・これは想像である。パルティアに就いては、初代皇帝アウグストウスが相互不可侵&通商の自由を認める外交で解決していた。それから70年後になる。AD114年春、防衛をハドリアヌスに託したトライアヌスはアンティオキアを出発する。主戦力5.5万、補助戦力を加え10万であった。

これが実現していたら、彼は「至高の皇帝」になったであろう。しかし、結論を言えばそれは夢で終わった。戦いの4年が過ぎ小アジアで病没する。

 

④ 私人としてのトライアヌスはどうか?甘い汁を吸おうとする親族・肉親なし。子に恵まれなかった彼には姉マルチァ-ナ、妻のプロティナの2人の肉親がいたが、2人とも「出しゃばらない女」の典型であった。自分の事は公正明大だった。親族に対しても特別待遇を全く与えていない。欠点は酒飲みなだけ。頑張った治世20年。

3.皇帝ハドリアヌス(在位AD117~138年・図-4):①スペイン出身で先代トライアヌスのNO.2の武将であった人である。ハドリアヌスを後継者として指名したかどうかは不明である。

しかし、ハロリアヌス以上の適材は、当時の指導者層の中にいなかった

結果的には、カエサルに匹敵する業績をあげた人である。ギリシャ好きから、初めてあごひげをはやした皇帝でもある。

②彼は帝国の安全を守るため、パルティア戦役の収束を図り、反ハドリアヌスの陰謀を企てた執政官経験者4人を粛清する。その後は「寛容」「融和」「公正」「平和」をモット-に統治を行った。すなわち、AD121年を皮切りに長い視察巡行の旅(図-6)に出る。21年間の治世の内7年しか本国イタリアに居なかった。1に安全保障、2に属州の統治3に帝国全域のインフラ整備が債務であった。彼は現場現物主義者であり、人気よりも業績を重んじた指導者であった。皇帝に同行するのは、宮廷人などではなく、建築の専門家集団の少人数であったと言う。ブリタニア(今のイギリス)のハドリアヌスの防壁は有名。各地の兵隊に対しても軍事訓練を怠らなかった。各種兵器の飛び距離と構造を図-11に示す。

③AD115年と131年にユダヤで反乱が勃発。前者はトライアヌスがパルティア戦中に背後を襲ったものでロ-マ側の怒りは激しかった。そして後者は、ローマ軍が勝利する。ハドリアヌスユダヤ人を強制的に「離散」させた。キリスト教徒はロ-マの統治に反抗していなかったのでイエルサレムに住むことができた。

ハドリアヌスの別荘(図-7)や浴場は有名だが、家庭事情は複雑で寵愛した美少年アンティ-ノ(図-5)がいた。妻はいたが、子供はいなかった。

ロ-マ法の集大成を行っている。帝国の防衛線を廻り悪法化したものは廃棄し、必要なものは新たに制定した。

⑤60才を越えたハドリアヌス(体力の減退とやることが無くなった精神の張りのゆるみ)の後継者選びは、養子に迎えたアントニヌス・ピウス(中継ぎ)であった。皇帝ハドリアヌスマルクス・アウレリウス(本命・図-14)を養子に迎えることを条件にアントニウス・ピウス(図-13)を後継者に指名した。完璧主義の表れだった。

4.皇帝アントニヌス・ピウス:23年間に渡る治世は、「新しいことは何もしない」慈悲深い皇帝(図-13)であった。統治される側にとって、幸福な時代であった。ブリタニアハドリアヌスの防壁の北にアントニヌスの防壁を作ったくらいである。

 南仏の出身で祖先はガリア人であり、市民に配る下賜金も私産から出し、壮麗な別荘を建てることもしなかった。帝国巡行はせず、ロ-マから統治を続けた。公正で透明なことを志した人格者であった。

 幸運で、幸福な23年のあとAD161年春74歳で没。その治世で何も問題が起こらなかった。40歳まで、アントニウス・ピウスの側近として仕えてきたのが、次のマルクスである。

5.皇帝マルクス・アウレリウス(図-14):哲人(ストア哲学)皇帝として名高い人である。「自省録」を残す。この本は4月にNHKの「100分で名著」で放映されている。自省録最後の結論は、「今日一日に最前を尽くせ。目標は今日の目標である」でした。

 しかし、先帝と異なり19年に亘る治世は多難な治世になった。

 飢饉、河の氾濫、蛮族の侵入、東方でパルティア戦役が始まる。だが彼には軍事上の経験がなかったのだ。

 そして、気質的には軍事に不向きな人にしては、戦争ばかりの19年であった。彼は前線で死を迎えたロ-マ皇帝の最初の人となった。AD180年、59歳。

 

6.そして、息子コモドウス(図-15)に後が引き継がれる。かの、映画「グラディエ-タ-」で知られる人で、なすべき事を何もせず剣闘試合や競技会に熱中した。 悪いことに、治世は12年に及んだ。

 やがて、元老院は満場一致で、前皇帝コモドウスを「記録抹殺刑」に処すことを可決した。ネロ、ドミティアヌスに次ぐ3人目であった。

7.こうして、5賢帝後のロ-マは衰亡の坂を転げ落ちて行く。終わりの始まりである。

8.AD324年、コンスタンティヌス、首都ローマを離れ、新しい首都コンスタンティノ・ポリス(今のインスタンブ-ル)にて、新しい宗教による新生ロ-マ帝国(東ローマ・ビザンチン帝国)を創生(再生)して行こうとする。

東・西2つのロ-マが誕生する。西こそロ-マであるが、AD476年滅亡。蛮族による滅亡ではなく、同胞である東ロ-マの侵攻(ゴート戦役)による滅亡であった。

そして、東ロ-マではキリスト教の公認・勝利へ。

<しばらく休憩>

①ナポレオンは英雄と呼ばれるのに、アドルフ・ヒトラ-(第3帝国)は何故英雄と言われないのだろうか?

②東ロ-マの国教がキリスト教になったとき、皇帝の立場はどう変わったのでしょうか?

③5人の賢い皇帝が何故続いたのでしょうか?

福沢諭吉は「学問のすすめ」の中で、「普通の人を育てたい」と書いています。慶応大学の建学の精神ですね。「普通の人」とはどんな人のことでしょうか?

⑤同じく、在日韓国人でありながら、東大の先生も務めた政治学者・羹尚中(カンサンジュン・図-16)さんは2019/3/25の朝日新聞の中で、「政治を自分の事としてとらえる力を身に付けて欲しい」と言っています。何故でしょうか?黒柳徹子さんが90歳になったら、これからの人生では、「政治を取材したい」と述べていました。   以上

カエサルⅡと初代皇帝アウグストウス

<読書会資料3>カエサルルビコン以後アウグストウス誕生まで 2019/3/4 あらまき

 

カエサルはロ-マの政治の仕組みを変えた創業の人

アウグストウスはカエサルの戦略に従ってロ-マの帝政を根付かせた守成の人である。

以下にそのプロセスを示そう。

 

1.元老院最終勧告」(軍団解散・帰国を命じ、服さなければ国家の敵とみなす)が届く前にルビコン川を渡ったカエサルの軍団はたったの4500人。

2.なのに、最終勧告を持参した者たちがロ-マに帰ったときはポンペイウス、現職執政官2人(反カエサル派)も多数の元老院議員(反カエサル派)がロ-マを逃げ出していた

3.カエサルは南下し(図-1)ロ-マにも寄らずに参加する兵士を増やしながらイタリア全土を一気に征服した。ポンペイウスは、自分の支持基盤(クリエンテス・図-2)であるスペインへ逃げて態勢建て直しに入る。陸上戦力10対2で劣勢にも拘わらず、カエサルは敵の食料と飲料水を絶つ戦略に出て降伏させる。内戦のため戦を避け、軍勢を解散すれば兵の命を保証した。これで、ポンペイウス側は降伏、全軍が解散した。開始から1ヶ月であった。

しかし、この間に兵士の従軍拒否ストライキ)にも会っている。カエサル(図-3)の信頼が一番強かった軍団・部下からである。長い戦いで信頼度が増すと同時に親密度も増すためであった。新密度は限界を超えれば「甘え」に変わるのだ。兵士は即時退役を要求してきた。

カエサルの対応は、「要求の受け入れ拒否」であった。

4.ポンペイウスはエジプトへ逃げたが、ロ-マの内戦に巻き込まれたくないエジプトによって殺された。「アレキサンドリアで、ポンペイウスの死を知った」とカエサルが書き残している。

5.そして、BC48年にカエサルは執政官になる。正当な政府がカエサルのものとなった。

6.クレオパトラ7世(図-4。アレキサンドロスの遺産であるプレトマイオス朝はクレオパトラと弟との共同統治下にあった。しかし、弟王の方が優勢でクレオパトラアレキサンドリアを追われていた。

敷物に巻かれたプレオパトラが宮殿の侵入するのに成功しカエサルと出会う。

「据え膳喰わぬは男の恥」とするカエサルは、即愛人関係になり、女王に復帰させた

21歳の美しき女王は自分の魅力に惹かれたのであろう・・と考えたのだが、カエサルは「愛しはしても、溺れない性格」であった。これは後に遺言状が公開されて本音が分かる。

カエサルに取っては、ストレスの解消のための愛人関係だったらしい。2人の間にはカエサリオン(シ-ザリオン)と言う息子も生まれている。

7.後に、カエサル亡き後カエサルの部下(NO.2)であり、後継者として最短距離にいた人物がマルクス・アントニウス(図-6左)である。しかし、カエサルはこのアントニウスの統治能力の限界を見抜いていた。

 

8.54歳のカエサルは今や独裁官10年任期)として絶対権力を手中にしていた。行った事業は以下の通り。

①国家改造:「寛容」(クレメンティア)を掲げ、一致団結して国家ロ-マの再生に力を尽くす。→これは、彼の死後アウグストウスの手で成る。共和制から帝政へ。

暦の改定:カレンダ-は大陰暦(1年は355日)であったものを現代の365日に改めた。

 「ユリウス暦」と言う。BC45年・1月1日からスタ-トした。今に残るもの。

③通貨改革:ロ-マの通貨を基軸としながらも、従来の通貨との併用も許した。生きている彼の横顔を彫らせて通貨としたのはカエサルが最初である。

④帝国へ:広大な領地の統治が機能的になされるためであった。600人の元老院から1人の帝政へ。元老院は17人の「10人委員会」へ変えた。

⑥市民権問題:カエサルガリアを含む属州の自由民にロ-マ市民権を与えた。「開放奴隷」の登用も行っている。例:国立造幣所のトップ3人がカエサル家の奴隷だった。

⑦属州統治:多民族、多文化、多宗教、多人種、多言語の集合体の統治である。

 移動を容易くするため、ロ-マ街道を全属州に網羅した。統治の鍵は、分権の範囲と税制、宗教の問題だった。属州税は収入の10

 宗教はロ-マは元々多神教であったので、一神教であるユダヤ教すら許した。ロ-マの宗教を明確にするため、主神を最高神ユピテル、その妻ユノ-、そしてミネルブァ女神の三神(図-5)と決めた。ギリシャ圏では、もともとこれ等はギリシャ生まれだったので簡単だった。

ギリシャ語に戻って、ゼウス、ヘラ、アテネ神を祭れば良いからである。

⑧司法改革:ロ-マの司法の最重要事項は、控訴権と陪審員2であった。

 「元老院最終勧告」を元老院から取り上げた。ロ-マ市民ならば、裁判なしで死刑になることは無くなった。陪審員は階級に関係なく、ある一定額以上の資産があればロ-マ市民なら誰でもなれることになった。

⑨その他、失業対策、福祉政策、殖民政策、交通渋滞対策・・・まで行っている。(笑)

教師と医師について、その職業の重要さを歴史上初めて認めた人である。教師と医師に全員ロ-マ市民権を与えることにした。市民権は属州税(10%)の免除、ロ-マ法による個人が安全保障される・・と言う利点があるのだ。

 

<ここでお休み・・>

カエサルクレオパトラのナイル河ラブラブ旅行:宮尾登美子著の本が出ています。

朝日新聞に連載されたものです。

ユリウス暦クレオパトラのお陰で出来たものです。当時のロ-マは355日/年、エジプトが365日/年を暦としていました。暦の月の名前に人名が付いている月は?

③ヨーロッパではカエサルが暗殺された3月15日は特別な日だそうです。

 カエサルは自分が暗殺されることを知っていたか?

 

9.結局、カエサルは終身独裁官に就任したが、執政官マルクス・アントニウスの提案である王になることは拒絶した。しかし、その日から「カエサルが王位を狙っている」と言う噂が付きまとうようになった。

そして、1ヶ月後の3月15日に元老院の議場で「国家の父」は暗殺されたのである。

55歳。実行者は14名、刺し傷23箇所、しかし、致命傷は胸1箇所のみ。当事者全員、呆然自失!全員が一目散に逃げた。「ブル-タス、お前もか・・」はカエサル最後の言葉として有名だが、本書には記述がない。後のシェクスピアによる創作らしい。

マルクス・ブル-タスはカエサルの愛人の子でカエサルが面倒を見ていた。暗殺者にたいするロ-マ市民の支持はなかった

カエサルは生前言っていた。「私が自分に課していることは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている。私と共に、私の目指す事業の完成に協力してくれたら、どれだけ喜ばしいことか・・・」・・と述べている。

 

10.暗殺者達:首謀者はカシウス・ロンジヌス(クラッスス派では軍の壊滅の際逃亡、ポンペイウス派につき降伏、カエサルの寛容で許されたのに、信頼されず出世できないと逆恨み)自分の不満だけでは、人が付いてこないと判断。

マルクス・ブル-タス(図-6中央)をリ-ダ-に押し上げた。ロ-マの公益を重視する潔白な無欲の人だから。その他「カエサルに許された旧ポンペイウス派」9人、カエサル派も4名いた。計14名。キケロ(共和制維持派・図-6下)は裏で思想面で暗躍。当時、カエサルキケロ沢山の書簡をやり取りしており、それが残っている。

カエサル派4名はガリア戦役、内戦時代にカエサルの部下で共に戦ってきた人達であった。「怖れをなしたカエサル派」と歴史家は分類している。信長に対する明智光秀の心境か?

これらの人達は2年以内に全て殺されてしまう!

11.遺言状公開カエサル亡き後、ロ-マの最高位者(共同執政官)になったのは、アントニウスである。彼の見守る中で、遺言状が公開されたカエサルの妹の娘の子、 

オクタビアヌス(未熟な18歳・カエサル家で育つ・図-7))を養子とし後継者に指名していた。死の6ヶ月前に書かれたものであった。

 開封された結果、最も失望したのは、アントニウスクレオパトラの2名。

当時のクレオパトラカエサルとの間に生まれたカエサリオンを伴ってロ-マに滞在中だった。遺言状では、クレオパトラもその息子について一言も述べられていなかったからである。

また、アントニウスの失望、はカエサルの右腕である自分こそがカエサルの後継者にふさわしいと信じていたからである。

 12.オクタビアヌスは若すぎたがカエサルは後15年は生きられる・・と思っていたようだ。カエサル平時の統治の才能あり・・と見抜いていたが、軍事面の才能不足も見抜いており、アグリッパと言う軍事的才能のある若い兵士をオクタビアヌスに付けていた。

 

13.アントニウスは野心を隠しながら、元老院会議を召集、暗殺者の刑事上の罪を追及しない代わりに、カエサルの決めた要職人事やカエサルの進めてきた政治を継承すると決めた。キケロ曰く、「何のための殺害であったのか!」と嘆く。(共和制にもどしたかったのであろう)

14.カエサルの墓はない。火葬されたが、激しい雨で遺灰が流されてしまったから・・?

15.オクタビアヌスアントニウスに対し礼を尽くしつつ、カエサルの遺志を継ぐと明言した。彼にはカエサルになかった資質があった。それは偽善(人のために善きことをする)だった。

16.暗殺者達:ロ-マは身の危険。別荘ですら危険になってきた。暗殺後になにをするか・を決めないで実行したことが間違いの基であった。

 オクタビアヌスが主催したカエサル記念の競技会の成功は暗殺者にもアントニウスにも心に影を投げかけることになった。アントニウスは暗殺者に接近し、カエサルの残した軍団が自分に従わぬため海外脱出する。オクタビアヌスを支持する軍団が増える

そして、民集会の圧倒的な支持のもと、19歳と言う前代未聞の執政官が誕生した。

そして、復讐が始まった。

17.第二次三頭政治が始まる。筆頭格はアントニウス、レピドウス(カエサルの副将だった人・温厚)そして、オクタビアヌス三頭政治の当面の課題は、①「処罰者名簿」の作成による、反対勢力の壊滅。②アントニウスオクタビアヌスは共同でブル-タス、カシウスを撃破する・・ことだった。「寛容」は「復讐」に代わったのである。

①は300人(筆頭はキケロ)の元老院議員と2千人に登る騎士階級(経済界)の名を連ねた。国家の敵として裁判なしの即・死刑と決まった。処刑は厳密に実施された

18.キケロの死:生きる気力を失っていた。アントニウスの命令で首と右手はフォロ・ロマ-ノの演壇の上にさらされた。(日本の獄門) 後に、老アウグストウスは孫達に「教養はある人だったよ。そして、深く国を愛した人でもあった」と述べている。

19.カシウスとブル-タスの死:彼らはギリシャやシリアへ逃げ、軍備を増強した。しかし、生きる意志を失っていたのであろう・・アントニウスオクタビアヌス連合軍にフィリッピと言うところで戦いに敗れ、自死を選んだ。ブル-タス43歳であった。

時代の変化を見ようとしなかった高潔な人の悲劇であった。

20.アントニウスクレオパトラオクタビアヌスBC42~30年)

①第一人者アントニウスが自分はロ-マ東方を担当、オクタビアヌスは西方を担当することに決めた。自ら東方を選んだのは、カエサルが果たせなかったパルティア遠征を目論んだからである。これに成功すれば、ロ-マ帝国は己のものになるからであった。東方の属州税額は西より大きかった。金の力で軍隊を増やそうと考えた。

 西方はポンペイウスの息子が海軍を持っており、このやっかいな敵を相手にしなければならない。しかし、西にはロ-マ本国を含んでいた。また、兵士を集めるのに有利でもあった。この有利さにアントニウスは気がつかなかった。

 

21.クレオパトラ:ロ-マの同盟国のエジプトの女王(当時28歳)であったクレオパトラアントニウス(当時41歳)をエジプトへ招待し愛の女神「ビ-ナス」に扮して、おもてなしを行っている。カエサルが生きていた頃、この女王は上司の愛人であった。アントニウスは平民階級の出身であり、戦場での才能は優れていたが、身に備わった品格により人を従わせるタイプではなかった。これで、勝負あり。色香に酔つぱらってメロメロになる。(笑)

結局、2人は結婚へ。既に2人の間には双子の子がいた。これが、破滅の第一歩となっていく。2人の横顔を彫った記念銀貨(図-9)が出ている。

22.パルティア遠征:パルティア(前のペルシャ)まで領有したいと言う野心を持ったクレオパトラの影響(動機が不純?)でアントニウスは遂に立つ。4年間待ったことになる。

この間、パルティア側は軍の主力を大槍の重装騎兵から弓を使う軽騎兵に変換していた。これを、アントニウスは見逃していた。

23.アントニウス軍重装歩兵6万、オリエント同盟国から4万、スペイン・ガリアからの騎兵1万計11万。対するパルティア側総勢4万騎。指揮はギリシャから帰化したモネスス。結局、パルティア軍はロ-マ軍の物資輸送隊を攻撃し、補給路を断った

冬を迎えて(8ヶ月間)撤退した時にはロ-マ軍は2/3に減っていた。このアントニウスの失敗は1ヶ月後にはロ-マに知れ渡る。落胆し、自信を失ったアントニウスの下にはクレオパトラが励ましに駆けつける。そして、アレキサンドリア凱旋式を行った。これは、ロ-マ人の気持ちを逆撫でするもので、アントニウスの人気は落ちるばかり・・となった。

24.そして、両者対決へ:オクタビアヌス30歳になっていた。ロ-マ本国の全地方自治体はオクタビアヌスを「国家ロ-マを守るため敵エジプトを攻める軍の最高司令官」に選出した。こうして、ロ-マとエジプト間の戦争にすり替わった。

25.BC31年9月2日の朝史上「アクティウムの会戦」(図-10)と呼ばれる決戦の火蓋が切って落とされた。450隻と400隻の激突。地獄の光景がくり広げられた。(海軍の方が残酷)

風向きの変わるのに合わせて、アントニウスに相談も無くクレオパトラが戦線から逃亡。もしかしたら、勝てたかもしれない決戦を、中途で放棄したのであった。

26.王宮で再会したアントニウスクレオパトラは励まし続けたが、兵士の離反は止まらなかった。アントニウスオクタビアヌスへ手紙を書く。クレオパトラを助けて欲しいと。返事はなかった。アントニウス自死を試み、クレオパトラの胸の中で死ぬ

27.オクタビアヌスクレオパトラは王宮で会う。カエサリオン(17歳)はオクタビアヌスの命で殺された。あとの子供たちはロ-マで養育されることになった。(どうせ、エジプト王にはなれない)

クレオパトラの運命は、ロ-マに護送され、オクタビアヌス凱旋式で最高の見世物となり、後は田舎で年金生活を送る・・となる。

28.クレオパトラ自死を決意する。BC30年、300年続いたギリシア系のプレトマイオス朝(アレキサンドロスの遺産)はこれで終わったのである。エジプトは以降皇帝の属州となる。そして、カエサルが打倒した共和制から帝政ロ-マが始まるのであった。オクタビアヌス初代皇帝アウグストウス(敬称)。彼がカエサルの考えをロ-マに定着させたのです。偽善によって・・。共和制まで復活(表向き)させている。軍縮国勢調査も実施している。そして、パスク・ロマ-ナ(ローマによる平和)が始まる。

 

<お休み2>

クレオパトラ7世は世界3大美女の1人であったのか?貨幣の横顔はそうは思えない。→しかし、私はル-ブルの肖像展を見ました。クレオパトラ1世の肖像がありました。仏様のように綺麗な子顔の女性でした。実は、クレオパトラ7世は弟であるプレトマイオス13世、14世とも結婚しているのです。兄弟-姉妹婚の理由は何か?

当時のエジプトにもギリシャにも、兄弟-姉妹の例はなかった。後に、先の王と后を神格化してイメ-ジを作り、現在の夫婦を前の夫婦の生まれ変わりに見せるためだったそうな。

クレオパトラは何故自死を選んだのか?

ユダヤ人を今のイスラエルから2000年前に追い出したのは誰でしょう?

カエサルの残した有名な言葉:「人間ならば誰でも、現実の全てが見える訳ではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない

                     以上 

男の中の男一匹 ユリウス・カエサルⅠ

<読書会資料2>               2019/2/18 作成  あらまき

 

「ロ-マ人の物語Ⅳ」ユリウス・カエサルから

初めに・・

ユリウス・カエサルとアウグストウス」についてまとめました。

先の英雄、アレキサンドロスの死後、その後を西のロ-マで継いだのがこの二人である。

ユリウス・カエサル(英名ジュリアス・シ-ザ-・図-1)は文章力・演説力に優れそのリ-ダ-シップにより古代ロ-マにおいてガリ(今のフランス・ドイツ・スイスなど西ヨ-ロッパ)をロ-マ化してその領域に取り込み、更に元老院による寡頭共和制を帝政に改革した人物である。野心と虚栄心(他人から良く思われたい)の誰よりも大きな人であった。図-6参照。しかし、彼はその改革途上で保守的な元老院達に暗殺されてしまったので、その後カエサルの意思を継いだのがアウグストウスオクタビアヌスカエサルの妹の孫・初代皇帝)である。

 

1カエサル知性に.優れた母親に教育された庶民地区(スプツラ)の出の人である。(母親のX遺伝子が息子の頭の良さを決める?)しかし、ロ-マ有数の名門貴族の生まれである。

2.借金魔であり、愛人を沢山作り誰からも恨まれていない優れた男であった。しかも、公私の区別をはっきり付けていた。最後の愛人こそ、かの美人で有名なエジプト・プレトマイオス朝(ギリシア系)の女王クレオパトラ7(タ-リア)であった。彼女(エジプト)のお陰で1年が365日の今のローマ暦(太陽暦ができたと言われている。

3.二人の間にはシ-ザリオンと言う男の子も出来たから、彼が豊臣秀吉のように種なしではなかった。しかし正妻との間には男子がいなかった。同居して育ったオクタビアヌスの才能を早くから見抜き後継者として指名していた。

4.オクタビアヌスは英明ではあったが軍事面で弱いと見たカエサルアグリッパと言う指揮・戦闘能力の高い人を付けている。

 

5.それでは、カエサルの成長と最大の功績であるガリア戦記を簡略に見て行こう。

①ロ-マの建国から653年経た、BC100年7/12生まれである。カエサルは姉と妹に挟まれた1人息子である。それゆえか、母の愛情を満身に浴びて育つ。生涯を通じて彼を特徴づけたことの一つは、「絶望的な状態になっても機嫌の良さを失わなかった」ことであった。楽天的でいられたのも、ゆるぎない自信があったからだ。

②17歳の成人式を迎える前16歳で政略結婚。当時隆盛を誇る総司令官スッラ(独裁者・元老院派・恐怖政治で有名)の反対派(民衆派)キンナの娘であった。キンナは案の定スッラを迎え撃つ前に殺された。

③スッラ(57歳)は民衆派の「処罰者名簿」を作り弾圧した。キンナの娘を離婚せよ・・は命令であった。これに対して「民衆派」を裏切る行為は将来リ-ダ-を目指すカエサルはしなかった。「絶対権力者と言えども、個人の私生活に立ち入る権利はない」と考えたからである。

④そして、カエサルは何もしないで待つことにした。そこで、前線勤務の好きなカエサルはキリキア地方の海賊対策に手を焼く地方の属州総督の下で働くべく逃避行を実施した。

⑤まもなく、スッラの死を伝える急使が到着した。そこで、帰国

⑥政治キャリアを目指す者に魅力的な弁護士を開業(23歳)。ロ-マの主要官職は全て市民集会での投票で決まるからだった。しかし、まだスツラ派の天下は続いており、敗訴を重ねて身は危険だった。そこでまた同期生達が出世する中を国外脱出。しかし、途中で海賊に捕らわれたりしながら、目的地ロ-ドス島に到着。ここでは、ストア学派の哲学者アンポロニウスの所へ留学。ほとぼりを冷ます。

⑦ここに空席になった神祇官の地位カエサル(27歳)が任命された・・と言う知らせが入る。そして、帰国。

⑧後にカエサル三頭政治」を始める2人。ポンペイウス名声を嫉妬される・図-4)クラッスス(手段を選ばぬ蓄財を軽蔑される)。前者は35歳でスペインから凱旋、後者はスパルタクスの乱を収拾した43歳。共にスツラ門下の俊英と見られていたが、仲が悪かった。

⑨ロ-マの政治的な最高地位は執政官で任期1。(軍事的な指揮も兼ねる)執政官立候補者を決めるのは元老院、だが決定は市民集会での投票だった。ロ-マは法律の国であった。

 当時、30歳のカエサルを有名にしたのは派手な生活ぶりと、その結果である膨大な借金であった。借金総額は11万人の兵士を1年間雇える金額であった。使い先は自分のため(読書やおしゃれ)、友人付き合いのおおらかさ、愛人へのプレゼント代であった。出世は遅れたが会計検査官を勤め上げ、自動的に元老院議席を得た。31歳。

借金で公共事業(戦勝記念碑建立)を行うなどで、ロ-マ庶民はカエサルを自分たちの希望の星と見るようになって行く。

カエサル遂に立つ。37歳。大物2人を相手に最高神祇官選挙に立候補する。そして、当選。カエサルは公邸に住まいを移した。暗殺されるまでここに住む。

カエサルと女。カエサルは何故あれほど女にモテ、しかもその女達に誰1人からも恨まれなかったのか?上流階級夫人をを総なめして、借金をさせて貰った。恨まれなかったのは、女を傷つけなかったからである。誰も切らなかった。そして、カエサルは愛人の存在を誰にも隠さなかった。

カエサルと金。多額の借金は債権者に取って悩みの種になる。債務者が破滅しないように全力で債権者が助ける。しかし、カエサル自分の資産を増やすことにこの借金を使っていない。自分の墓さえ関心がなかった。事実、彼の墓はない。

⑬「三頭政治」成立へ。BC60年。ポンペイウスクラッススカエサル三者が話し合いで連合(選挙と政策での利益誘導)する事になった。カエサルからの提案である。40歳。そして、カエサル執政官就任。久々の急進派の登場。不安を抑えるため、元老院会議を公開にしてしまった。「農地法」改革も行ったが、元老院派の強い反対に出会ったが、市民の応援もあって成立。

ガリア属州総督へガリア全体の統治の責任者である総督、任期5年、4個軍団、幕僚任命権はカエサルに・・の4項を元老院に法により認めさせた。

 

6.ガリア戦記。何もかも正直に、公平に記述してロ-マへ報告した。名文であることが有名

①「ガリアは、その全てを含めて、3つに分かれる。第一は、ベルギ-人の住む地方、第二は、アキテ-ヌ人の住む地方、第三は彼らの呼び方ならばケルト、我々の呼び名ならば、ガリア人が住む地方である」前書きなしに始まる。簡潔、明晰、洗練されたエレガンス。

②当時のガリアの状況。未開拓で森林、河川が耕地より多かったが、水が豊かで気候も厳しくない。人口にも恵まれ、1200万の人口でも養っていける農産物、家畜を産した。勢力の強い部族は10以上、小部族まで入れると100以上の部族に分立していた。ライン河の東では気候が厳しく、食べて行けなくなった人々の目が、食べていける地方に注がれるのは自然の勢いであった。ガリア全図-2参照。

ガリア戦役1年目~6年目は図に示す通りの行程である。ガリアに及ぶ地域をロ-マ化(文明化)する事にしようと考えた。カエサル42歳から47歳になる。カエサルの行った、特記すべき事を下記する。ローマ軍兵士図-3、ガリア戦士図-5参照。

・戦闘指揮と同じ程度の重要さで兵糧確保(兵站・ロジスティックス)を行っている。  

「戦争は、死ぬためではなく、生きるためにやるのである」

・ロ-マ軍の投げ槍は先端が撓うように鉄が使われていて、敵の盾を貫いた時に曲がり槍が抜けなくなっていた。2mの長さの槍を付けたままでは盾の用をなさずそれを捨てて盾なしで戦わざるを得なかった。

・負ける戦いがあっても、カエサルの演説はよく伝わり、全兵士の士気は一変したという。

カエサルがロ-マに居ない間「元老院派」を釘付けにしておくよう護民官クロディウス(就任に協力)に監視させていた。特に、キケロ

カエサル(総司令官)の責務は戦場を馬で走り、離れた軍団を適所に送り込んだり、全体を見て適材適所に兵を動かし戦力の効率を上げた。(現場主義)

・降伏をしてきた部族に対しては、人質を取らず、講和を認め、彼らの土地に帰って住む権利も認めた。更に、他の部族に対し敗者を侮辱したり、攻めたりしてはならない・・と命じた。(寛容の精神)

・ローマの技術力として、兵を工兵に変えて、大掛かりな攻城兵器を作って敵に見せつけた。ローマは土木技術に優れていたライン川渡河には木製の橋も作っている。

・部下の上げた功績ははっきりそのことを明記している。(公平でオ-プン)

戦役4年目にはブリタニア(英国)に進出。お試しであったが、潮の干満差で船を流され失敗に終わりガリアへ引き返した。

 

7.「三頭政治」の一角、クラツスス。ローマ最高の富裕者。彼は60歳代に入っていたが、ポンペイウスカエサルに比し軍事上の名声に欠けていた。シリア属州総督5年目で焦っていたのだ。

総司令官に求められるものは、戦略思考だけではない。戦場に兵士たちを従えて行く人間的魅力や人望である。これがクラスッスに欠けていた。

①そこで彼は、BC55年パルティア遠征(図-7を行った。元アレキサンドロスが支配した地域である。

②金持ちは自腹を切るのが不得手で、行軍途中で略奪をしたのである。総司令官の振る舞いは自然に兵士に感染する。略奪集団と化したのである。

相手が準備していなかった初戦の成功はあったが、情報軽視のため失敗に終わるのである。

③迎え撃つパルティアにはスナレスという青年貴族がいた。かれが戦略を担当した。

軽装騎兵(図-8)ばかりの彼の工夫は、弓を軽くして弓なりを2つにして鉄片で補強して射程距離を3倍にし、更に矢を打ち尽くした後、らくだの背に矢を山と積ませて同行させた。

④これで、ロ-マ軍は混乱し退却となった。そして、講和の会議の最中に小競り合いが起こりクラスッスは死んだ。スナレスも名声が自分のそれをしのぐのを恐れた王オロデスが事故を装って殺させた。これで、ローマは2頭となり、カエサルの存在が大きくなっていく

⑤いまだ53歳のポンペイウスだが、海賊一掃当時の果敢さは消え優柔不断になっていた。

元老院派は名声を見込んで自派に引き込もうとするが、はっきりした態度を示さなくなった。

8.ガリア戦記7年目。全ガリアとの戦いとなったアレシア攻防戦。図-10参照。

①オーブエルニュ族は「長髪のガリア」では最も南に位置する部族である。これまではカエサルに反抗したことのない人々であった。しかし、ブエルチンンジェトリックス(以降ジェトリックス・図-9)と言う30代半ば若者がガリア全域に反ロ-マ決起を促す使節を送った。この若き総大将は、厳罰主義で戦うことを決意した。これが、分離しがちなガリア人を統合し総決起を促すことになった。カエサルは敵軍が南仏属州むけ接近中との情報を受けるや、新編成の一個軍団を配して攻めに転じた。これに脅えた北から来たガリア人は攻撃を諦めた。(南北の兵を分断に成功)

ガリア側は「ブル-ジュ」と言う町(難攻不落な要塞)にこもった。(ジェトリックスの基地は24km離れていた)食料調達の不安のある中、カエサルは攻城設備(図参照)を行い、ガリア側は篭城に絶望して来る。それを知るや、朝方から激しい雨の日に総攻撃に入る。抑えられていたロ-マ軍の戦闘意欲が一気に爆発した。これにより、4万人いた住民の内、生存者は初期に逃げ出した800人のみ。ローマの勝因は技術力にありローマに付くべし・・を示した。

③最後は、ジェトリックスはアレシアと言う町を選ぶ。この町は全ガリア人の信仰を集める聖地だったからである。無論、町は城壁で囲まれていた。アレシア攻略全体図とカエサルが築いた包囲網の防衛土木工事の内容については図- に示す。完成まで1ヶ月であったと言う。ガリア側は8万の兵に町の住民の食料が底を付き始めていた。外部の情報も入らなかった。

④実はこの間ガリア側救援軍の編成は進んでいたのである。総計、歩兵25万、騎兵8千にのぼった。全ガリアがカエサルに抗して立ち上がったのである。4人の司令官に中部フランスを埋める勢いでアレシアに向かった。BC52年9月、到着。ジェトリックスと8万の篭城兵は狂喜した。カエサル5万の兵力で内外34万の敵と戦うことになった。

⑤最初は、騎兵集団の戦闘から始まったが、結局ガリア兵は外も内もカエサル包囲網を突破できなかったカエサル側の兵士が命令されなくとも動くよう良く訓練されていたからである。正午、アレシア攻防の幕が3箇所で同時に切って落とされた。カエサル赤マントをつけ騎兵を連れて白兵戦に突っ込む。

⑥結局、ガリア側は総崩れとなり、ジェトリックスは他の人の助命を願い、自ら進んで捕らわれの身となった。アレキサンダ-大王に匹敵する勝利であった。

⑦ジェトリックスはカエサル凱旋式が挙行されたBC46年、凱旋式に参列した後で殺された。生かしておいては、危険過ぎる有能な人材であったからである。

カエサルが書いた「ガリア戦記」は7巻(BC52年)で終わっている。この年の終わりに「ガリア戦記」7巻を刊行している。彼の同時代の人と違って、元老院(反カエサルの人が多かった)よりも市民の支持に賭けたからである。

 

9.戦後処理

①戦後処理1、ペルシャ帝国だけが相手だった、アレキサンドロスに対して、100もの部族が乱立するガリアの統一は大変だった。ガリア4大部族は直ぐに恭順(指導者層の温存を認め誓約を結ぶ)してきたが、中程度の部族がカエサルの任期切れを狙っていた。そこで、略奪、焼き討ち、水責めなど残虐な見せしめも行っている。

②戦後処理2、私有財産や神様を認める、と同時に生活の豊かさを求める民であったので、町や文化を残し、道路などインフラ整備を行うに留めた

③部族の指導者階級の子弟は人質として、実態はホ-ムステイとしてロ-マで学ばせる

④税制の改革。ガリア全体で一定額と決めた。税制はガラス張りとなった。

⑤こうして、ガリアにロ-マ兵は1人もいなくなった。それでも、ガリア人による反ロ-マの武力行動は全く起こらなかった。帝政時代を通じてガリアは「ロ-マ化」の優等生であり続けたのである。

 

10.ルビコン川(図-11,12を渡るまで。

元老院には、一般市民を熱中させるカリスマ性のある指導者に欠けていた。 そこで、ポンペイウスを取り込み、カエサルを孤立させようとしていた。危険な存在だった。一方、

カエサルの考え---6世紀続いてきた寡頭共和制超大国になった前1世紀のロ-マの現状には適さなくなっていた。それに代わる秩序を確立する必要を痛感していた。→帝政

②ローマ法では、軍勢の指揮権を与えられている者は首都の城壁内に入れない事になっていた。執政官に立候補すれば、旧部下達がこぞって投票するから当選確実だが、そうなっても、6ヶ月間丸腰にならざるを得ない。

カエサル情報収集力とそれを基にした出先機関の活用の才は驚くばかり。戦闘中でも、首都の情勢の変化は完璧に通じていたし、属州統治も見事に機能し続けていたと言う。

カエサルの長い手」があった。反カエサル派の若手護民官(クリオ)の才能を評価して味方に付けカエサルの利益を守らせている。

元老院最終勧告」が成立した。ガリア属州総督は、元老院の帰国命令に服すこと。

ルビコン川を前にして、カエサルは迷うのであった。国法を犯して(国賊)まで決行することによって生ずる結果を思ってのことである。すなわち、起きることが必至の内戦である。しかし、カエサルは生涯、自分の考えに忠実に生きることを自らに課した男であった。

「賽は投げられた」先頭で馬を駆るカエサルに続いて一団となってルビコン川を渡った。BC49年一月十二日、カエサル50歳と6ヶ月の朝であった。図-12 参照。

 

 

                       以上

英才教育のヒ-ロ-・アレキサンドロス

<読書会Ⅰ>                  2019/1/25 あらまき作成

はじめに・・歴史を学ぶと言うこと。

福沢諭吉は「学問のすすめ」のなかでこう言っている。

自分は「普通の人」を育てたいと。普通の人とは、世の中の風潮に流されないで「自分の考え」を持っている人のことである。歴史には過去を生きた人の生き様が残っている。

これを学び自分の生き方を「考える」人になって欲しいのです。

            (記)

ギリシャ人の物語・新しき力」  塩野七生著から

 

かの有名なアレクサンドロス大王の事について、我々はどこまで知っているのだろうか?

紀元前300年頃の話である。中国では秦の始皇帝の頃である。

1.都市国家アテネと父王フィリッポス。

都市国家アテネ(賢人ペリクレス・民主制・覇権国)の凋落始まる。そして二度と元へ戻らなかった。

ペロポネス戦役アテネとスパルタ間)の敗戦(紀元前404年)による。軍事大国、経済大国の地位からも突き落とされた。

勝った方のスパルタ(身分格差のある寡頭制・軍事力(傭兵出稼ぎ)のみで経済センスなし)もまたペルシアに負け衰退した。今に残る文化遺産無し。スパルタの重装歩兵は図-2-1

②その後スパルタを負かした(前375年・レウクトラの会戦)テ-ベ都市国家・寡頭制)も中小企業(2人の俊英な総司令官が戦死))に過ぎず覇権国家としてギリシャに君臨できなかった。→そしてギリシャには「誰もいなくなった」

③この3年後ギリシア北にあるマケドニア(王政)で23歳のフィリッポス二世が王位に就く。そしてまた3年後にアレクサンドロスと言う息子が生まれる。図1

マケドニアの王政は変わっていて、王は有力な武将達による選挙で決まる。フィリッポスは血筋、軍の総司令官、内政と外交上の手腕が優れていた。

⑤新生マケドニア軍:a.兵士を農民層まで広げた。(国民軍)b.兜、甲冑、盾等を軽量化した。c.槍はスパルタ比で2倍の長さにした。図-2-2

d.重装歩兵「ファランクス」を大型化した。図-3-1 恐怖心を取り除くためである。

d.古代人は鐙(あぶみ)を知らなかった。騎兵の足は固定できず、槍で突いたり、投げるしかなかった。練達の騎兵は幼少の頃から馬に慣れた者のみ。「騎士階級」と言う。

トラキア地方の鉱山を確保し、財源確保にも努める。

⑦アレキサンドロスの家庭教師としてアリストテレスを呼ぶ。学友が沢山できた。哲学の祖・ソクラテスプラトンアリストテレス。文化を大事に。アテネの学堂」という有名なラファエロの絵がある。

⑧ついにギリシアの覇者に。紀元前338年、北から南下してきたマケドニア軍(歩兵3万・騎兵2千)とギリシア都市国家連合軍(3.5万)がカイロネアの平原で向かい合った。

騎兵の指揮官がアレキサンドロス。「ダイヤの切っ先」図-3-2 勝機と見た一瞬を逃さず、テ-ベ軍の裏に廻り神聖部隊に突入。戦況は一変。これが初陣。図-4  以降今回を含めて6戦全勝&全てが快勝!

「カイロネアの会戦」はマケドニアの大勝で終わった。1.2万で参戦したテ-ベ軍で生き残れたのは1/10に過ぎなかった。マケドニア側は死傷者の記録がない。記す程の数でなかったため。→兵士の士気が上がる!(重要)次の目標はペルシャの征服であった。

⑨フィリッポスの戦後処理が長年の妻(オリンピアヌス)を離婚、娘ほどの年齢のクレオパトラと結婚した。これをきっかけに父-息子が不仲。家出までした。フィリッポス46歳、王位に就いてから23年、首都の劇場へ向かう途中で近衛兵の1人に暗殺された。

犯人の若い愛人を王の高官が強姦したので直訴したが受け付けて貰えず犯行に及んだ。

 

2.アレキサンドロスの育ちと躍進。

①アレキサンドロス(20歳)が王位継承。有力武将による選挙の結果である。能力の高い2人、父と子はいずれ正面から激突したであろうから、ギリシャにとって幸いなことであった。

②アレキサンドロスの育てられ方。父は豪放磊落、野蛮な兵士と同じように振舞う。母・オリンピアはこれが嫌でギリシャ的、文明的に育てた。反面教師が父

「生涯の書」はホメロスの抒情詩「イ-リアス」で母から聴かされて育つ。この本の主人公は、1本気で正直でフエァプレ-で事を解決する「短命でも輝かしい生涯を」と高言するアキレウス(アキレス腱)であった。

生涯の友、幼少期の遊び相手、ヘ-ファイスティオン。図-6

そして、命を託す馬。体格も大型、俊足だが猛々しい「ブケファロス」。アレキサンドロスのみが乗りこなせたので購入。生涯の愛馬に恵まれた。

④父の英才教育Ⅰ、武力と体力の強化の師「スパルタの王、レオニダス」そしてスパルタ教育。全重量40キロの重装備で長距離行軍など。学友仲間も参加。→学友はペルシャ進攻時の一軍の武将になる。

英才教育Ⅱ、哲学者・論理学の創始者アリストテレス(40歳)を招聘。アテネ式教育の内容は不明だが、以下推測できる。アリストテレス知的関心は広範囲だった。自然界、人間界に関係なく何にでも関心を示した好奇心の強さ、そして抜群のバランス感覚の持ち主であった。

「理論的には正しくても、人間世界では正しいとは限らない」・・「知識」と「知力」の違いを感じる一句である。

知力とは、縦の情報(歴史)と横の情報(日々の情報)に対し偏見なく冷静に受け止める姿勢の確立→自分の頭で考え自分の意思で判断→実行へ。この能力の向上である。

 

⑤20歳で王に。残していくマケドニアの安全とギリシアの安定を父王時代からの高官(後述・外交が得意→母オリンピアヌスへの対応、軍資金不足あり)に任せて東征へ。1.2万の歩兵、1500の騎兵を残す。遠征途中の兵の交代要員だった。連れていったのは3万の歩兵と5000の騎兵(比率が多い)のみ。騎兵の機動性に目を付けていた。

⑥行軍の速度が速かった。先頭を行くアレキサンドロスが早いのだ。

グラニコスの会戦」初めての王として、ペルシャ軍との戦い。当時のペルシャは裕福な国で辺境とは言え総勢4.5万(内騎兵1.5万)内容は省略するがアレキサンドロスの相手主力部隊の裏へ攻め込む突撃でアウエイ勝利。その日の内に決着した。ペルシャ側戦死者4000人、2000人が捕虜になった。捕虜はマケドニアの鉱山へ送り強制労働へ。マケドニア側の戦死者は騎兵25(エリ-ト)+60人、歩兵戦死者は30人。勝利のあとは兵士全員での大パ-ティ-を行う。最高司令官は酒飲みで宴会好き。身分差の無い修学旅行気分だった。

しかし、次の目標はサルディス。サルディス防衛の高官は平和裏の開門を選び→エフェソス、ミレトスへ。いずれも城門を開く。捕虜にしたギリシア人傭兵200人はギリシャ軍へ編入させた。「寛容」で臨んだのである。

ペルシャ帝国は当時最大強国の国ではあったが、明確な組織の上に築かれた中央集権国家ではなかった。多くの部族に分れ、部族の地方長官(サラトベ)がいてその上にゆるく王による支配のネットを広げることで成り立っていた。(日本の室町幕府の様)だから、ペルシャ内の行軍では殆どの部族とは平和裏に通り過ぎることが出来た。現状維持を約束。この間、兵を一時帰国させたり、新規参加兵を募集している。

⑧「ゴルディオンの結び目」・・この結び目を解くことが出来たものだけがオリエンとの支配者になれる・・と長老が言う。ロ-プの先端が何処にあるか分らない。→司令官は一刀両断。明快で単純に対処が有効。

ペルシャ王、ダリウス3世、47歳が遂に立つ。しかし、打つ手が常に遅れる人であった。

オリエント人の気質もあって、多くのご意見番に囲まれていたからである。決断した後に迷いを生じた。一方のアレキサンドロスは即決、独断。

イッソスの会戦」へ。当時、豊かなメソポタニア地方(ユ-フラティス川、チグリス川)こそペルシアの中核地帯であった。ペルシア軍15万、に対しギリシャ軍3万(歩兵2.5万、騎兵5000)。前の会戦後より少ないのは戦略要地ごとに基地を置き兵を残して来たためである。アレキサンドロスは11月までダリウスを待ち、その間戦略・戦術を各隊の司令官に告げている。彼の人生で会戦と呼ぶに相応しい大バトルは4回あるが、「イッソス」こそ最も重要な戦闘であった。

戦況は図-7~10に示すが、例によってアレキサンダ-の騎兵部隊が機を見て敏に敵主将ダリウス目掛けて突進。結果としてダリウスが1人で馬で逃亡したため決着がついた。

有名な絵が残っている。図-8に示すものである。

戦闘に勝つ方法は1つ。味方をパニックにしないで、相手をパニックに陥れることに尽きる。(日本で言えば、関ヶ原の戦い小早川秀秋が家康側に寝返る場面→1日で決着)

ペルシャ側犠牲者歩兵10万、騎兵1万。圧死が多かった。ギリシャ軍の損失は戦死者450人のみ。圧勝であった。戦死者はその戦場で火葬にされ、その戦場に葬られた。死者の埋葬は、彼らを率いた最高司令官が行うのが慣例だった。これは後のロ-マに引き継がれている。最高司令官にとって、兵士は戦友なのだった。一方のペルシャは何もしない。

⑪次はa.一気にペルシャの本拠地に攻め込むb.エジプト制圧。の2つの選択があったが、司令官は後者を優先する。やはり、「イッソス」の影響は大きかった。地中海東岸の海港都市が揃ってペルシャを捨てアレキサンドロスの支配を受け入れた。この頃鋳造させたアレキサンドロスの金貨が残っている。自分の横顔を通貨に掘らせたのはアレキサンドロスが最初である。後にロ-マ帝国がカエサルを初めとする皇帝達が真似るようになった。

 

⑫.4回目の会戦がティロス攻防戦だった。ティロスは地中海沿岸から500m離れた海上浮かぶ島に都市部があった。ペルシア側に戻る可能性がある都市は背後に置かないフェニキアペルシャ)海軍は放って置けない・・の2点から陸地側から500mに及ぶ突堤を海中に築き島を舟で囲んで封鎖した上で総攻撃して陥落させる。7ヶ月の忍耐と我慢であった。

これで、「シ-レ-ン」が確立された。ペルシャ王ダリウスから2度の講和の申し入れあるも全てはねつけた。ここまででアレキサンドロスが負傷したのは3度になるが常に最前線に立つ。

⑬エジプトの専有。エジプト人ペルシャの支配に常に不満を抱いていたのでマケドニアの若者を解放者として受け入れる。前331年24歳。(3年目)

政治的な面も手抜かりは無かった。

今まで軍事的に制覇した地域での、彼の支配下での再編成も忘れなかった。

即ち、・行政事務は、留任を認めたペルシア人に。

   ・防衛担当の軍事は、マケドニア人に。

   ・税の徴収などの財政事務は、マケドニア人以外のギリシャ人に。

 従来地方長官に集中していた権限を3分割したのである。エジプト以降もこの制度は続く。

ガウガメラの会戦(5回目)ダリウス(49歳)との2回目の最後の戦いである。今度は平地なので、ペルシャ側は新兵器・鎌つき戦車(図-9)200台と15頭を前線に置いて活用するため選んだのである。

しかし、アレキサンドロスは行軍途中で斥候・捕虜により敵の情報を得て、事前に対応策立て訓練して戦闘に臨んだ。

結果は、象は産地でないためコントロ-が下手。槍を突き立てられて、Uタ-ンして自軍へ暴走。鎌つき戦車も向かってきたらさ-っと身をかわし通り過ぎたら閉じる・・ことでその間に馬に対して投げ槍や弓矢を浴びせかけた。これで、新兵器は非戦力化してしまった。

戦況は、前回イッソス同様に勝機をみてアレキサンドロスが騎兵を連れペルシャ主力歩兵を側面から突いたので、後方にいたダリウスはまたもや逃走したのだった。5倍の戦力が総崩れになったのだった。

⑯「ダイヤの切っ先」:アレクサンドロスの後に現れた古代の名将は誰か?第二次になるポエニ戦役で16年間ロ-マ軍をキリキリ舞させた、カルタゴの将ハンニバル。そのハンニバルを最後の一戦で破ったロ-マの将スキピオ・アフリカヌス。西方を制したロ-マきっての武将ユリウスカエサル。この3人が武将としてのナンバ-ワンはアレキサンドロスで一致していた。しかし、3人ともアレキサンドロスのやり方を踏襲していない。連戦連勝なのに・・・。

皆「ダイヤの切っ先」になったこともなく、敗戦を経験している。

そして、最後には3人ともが、笑いながら言った。「なにしろ彼は、若かったからね

 

⑰逃げ出したダリウスはその後側近達に殺された。

ここで、アレキサンドロスはペリセポリスの王宮の炎上のみは命じた。(アケメネス朝ペルシアの滅亡をペルシア人に分らせるため)しかし、都市部や王の墓所には手を触れさせなかった。皇后と娘も処罰なし。(寛容の精神→ロ-マへ引き継がれる・クレメンテスと言う)

 

3.総司令官にも色々な問題が起こり悩む。そして、死へ。

中央アジアへ。この間、マケドニア騎馬軍団に陰謀が発覚する。父王の有力な側近であったパルメオンの息子フィロ-タス。優秀な武将であり、アレキサンドロスの直ぐ後ろ(次席)にいた騎馬軍団の総指揮官である。不満分子の不穏な空気(暗殺計画)をアレキサンドロスに伝えなかったからである。息子(処刑)の罪は父親にも責任がある・・と言う決まりがあり、70歳になる父パルメニオンも自ら死を選ぶ。他人より成長することは、孤独になることだった。次席にはクラテロスがなる。スパルタ教育の学友である。この事件で死刑になり出来た空席を埋めるため昇進した1人にアレキサンドロスの死後にエジプト王になるプトレマイオスもいた。

②東征再開。最高司令官は27歳になっていた。戦闘に勝って獲得した地でも戦略的に大事な土地毎にアレキサンドリア」と名つけた新しい町を建てて行く。基地の建設、道や橋などのインフラ全般担当が親友ヘ-ファイスティオン。カブ-ル北部山岳地帯に入ると、地勢は複雑でゲリラ戦となった。食事も兵士と同じものを食べ、寝るのも将達と同じ天幕で雑魚寝であった。補給源の確立が必要だが、ギリシアから補給物資が一兵卒まで届き、通信・手紙も届いていた。こうして、ゲリラ相手の戦闘にも勝ち続けることが出来た。

28歳。ここで、古い将の1人が酔ってアレキサンドロスを非難した。アレキサンドロスも酔っていたので、槍を投げつけ即死させてしまうと言う事件が起こる。これから、28歳は部屋に閉じこもる。自己嫌悪→憔悴しきった王の顔を見て涙する兵士に王も涙を流し責任感から立ち直る。現地人との融和政策により部族の長の差し出された娘(ロクサ-ネ)を貰う。絶世の美女だったと言う。彼は側室や愛人を持つのは嫌いだった。戦いより融和政策を進める。敗者同化戦略である。率いる軍そのものがマケドニアギリシャ軍が多民族軍に変容しつつあった。

インドへの道。最後の会戦・「ヒダスペス」。相手はボロス・インドの王。象の扱いが得意。戦力は歩兵5万、騎兵6千、両輪に鎌を付けた戦車500台。訓練された象200頭。

一方、アレキサンドロス(30歳)側は歩兵4万、騎兵4千。戦車・象はゼロ。

河をはさんで向かい合う。捕虜になった敵方の者を釈放して偽情報を流すかく乱作戦でボロスが狼少年を信じなくなった。詳細は省くが、会戦の度に戦略・戦術・機動性向上と進歩させてきた。盾は小型化、槍も普通の長さに戻し、歩兵はファランクスをやめ数多くの分隊(散兵大村益次郎鳥羽伏見の戦い)に分けられた。小回りが出来るようにするためである。

結果は、アレキサンドロスも数箇所の手傷を負っていたが、象の上から指揮していたボロスの方は投槍と矢の集中攻撃を受け出血多量で気を失った。血まみれの主人を象が気がつき前足を曲げて地についた形で停止した。これが合図となり王の象に他の象も従うように訓練されていたので、会戦は終了したのだった。ボロスは捕虜になる。マケドニアの医師チ-ムに応急処置を施させた。この後、両者は対面する。この会戦での死者はボロス側2.2万人に対しアレキサンドロス側1000人。しかし、これまでの会戦に比し多かった。

・アレキサンドロスはボロスに王としての処遇を与える。生き残った王の兵士には全員に自由を与えた。最後にはインド王ボロスはアレキサンドロスの同盟者になった

④これから・・・

愛馬ブケファロスが主人を下ろしたところで亡くなった。17年間の人馬一体の仲。

・アレキサンドロスの兵士がストライキに突入。マケドニアの兵士から「8年戦い続けて疲れた」「これ以上東方へは行きたくない」であった。4日後、「よろしい、帰りたいと言うお前たちの要望は受け入れよう」となった。しかし、どう戻るかは、アレキサンドロスが決める

・インダス河に沿って南下することになったが、この地方の王が抗戦(城壁内にこもる)に出た。最前線にいたアレキサンドロスに城壁の上から射られた矢が胸に命中したのだ。兵士が矢を抜いたため出血多量で気を失う。今までで一番の重症であった。兵士達は王が死んだと・・大騒ぎになった。4万の大軍である。この兵士の不安と恐怖心消すのに苦労した。

⑤回復した総司令官は前325年4万の全軍を3軍に分ける。第一軍2万はス-ザ経由帰国ル-ト。

第二軍1万はアレキサンドロスが率い海岸に沿ってス-ザに向かう。好奇心による探検行だった。残り第三軍は海上ルート。こうして、ヨ-ロッパ人未知の地である最初の冒険行は完全踏破された。犠牲者なし。

⑥敗者同化とそれによる民族融和の夢:公共心と言う言葉はギリシア人の発明。ペルシャ帝国の「地方長官(サラトベ)」は行政、軍事、財政の3権を全て持っていた。従って、私財をため込む者もいた。この3権をアレキサンドロスは分割したが、不正をまだ働く者は解任し、厳罰に処した。信頼を裏切ったからである。

しかし、アレキサンドロスの考えは以下の通り。

「ヨ-ロッパもアジアも今や1つの国になったのだ。君たち全員が私の同国人であり、兵士であり友人である。誰もが同等の権利を享受し、同等の義務を負う。1人の王の基で運命を共有するのだ」・・これを具体的な形にして示した。

 1万人のマケドニア将兵と、1万人のペルシャの娘との合同結婚式をあげたのだ。この結婚式でもアレキサンドロスが先頭に立った。ダリウスには2人の娘がいたが、長女と自ら結婚し、次女はヘ-フィスティオンと結婚させた。マケドニアに妻がいても、皆2重結婚だった。そんなことはお構いなしの命令だった。ハ-フの大量生産システム。→このやり方はロ-マにも引き継がれ、属州民として兵役につき→満期除隊後はロ-マ市民権まで与えられた。(世襲市民権)ユリウス・カエサルは自分が征服したガリアの有力部族の長に元老院(今なら国会)の議席を与えたことで、元老院内部の旧主派を敵に回し暗殺された。

しかし、その後カエサルは後継者に恵まれ、ロ-マ初代皇帝アウグストウスによりカエサルの考えを法律化し定着させた。←古代ロ-マが強大になった要因である。

 

心の友の死ヘ-ファイスティオンが病死したのだ。彼だけがアレキサンドロスの心の内を全て知っていたのだ。何でも話せた人であった。今まで外傷は多々あったが、心の傷は全快することはなかったであろう・・。

 西征を夢見ながら、332年32歳の若き王の目指した先はアラビア半島の征服、そしてカルタゴであった。無二の友の死を忘れたかったのか?バビロンへの全軍集結は4月、5月出陣と決まった。ところが、会議の途中で倒れたり、寝台で寝込むことが繰り返されるようになった。出陣は延期になったが、高熱に喘ぐ日ばかり。病因は「マラリア。32歳の体力なら回復して良い筈が消耗していたのだった。

 最後の別れは長年一緒に戦ってきた兵士たちとであった。兵士の誰一人も去って行った者は居なかった。何故彼だけが、後の人から「大王」と呼ばれるのか?今でもキリスト教徒の親は子に「アレキサンダ-」「アレックス」と名前を付ける人が絶えないのか?

「西征」は後に全てロ-マが実現していくのである。これは200年後になる。

ヘレニズム世界。死に当たって、将達が「この帝国を誰に残す積もりか?」と問う。

答えは「より優れたものに」であった。13年間一緒に戦ってきた学友&将軍7人が残された。皆武将としては優れた能力の持ち主であった。

しかし、洞察力、先を見る力、自分で考える力に差があった。全責任を負って決断・実行を迫られ成長してきたアレキサンドロスとの差は大きかったのであろう。

 結局、後継者争い。同士討ちが始まった。実に50年間。どんぐりの背くらべであった。

残ったのは、セレコウス(シリア)とプレトマイオス(エジプト)の2人。この2人も「より優れた者」の訳ではなく、無理にエネルギ-を使わなかっただけ。図-10

 クレオパトラ(7世)で有名なプレトマイオスに至っては、軍功もなく、当時エジプト担当の「地方長官」だったに過ぎない。

 そして、ロ-マが本格的に乗り出してくるまでの200年間、地中海の東半分を支配する「ヘレニズム時代」になるのである。地中海西方の国に東方に手を出す余裕がなく続く。

アレキサンドロスが残したもの:第一は政治的に安定したこと。東征の途中で「アレキサンドリア」と名付けた町を建設。70に及ぶ。軍事基地(治安良し)が必要だったからである。第二にはギリシア語が国際語になった。第三に各国の通貨の価値基準を統一。

これらが、大経済圏を成立させた。第四には、学問と芸術が満開になった。エジプトのアレキサンドリアの図書館(ムセイオン)は研究者の最大の拠点になった。

 芸術面では、ミロのビ-ナスが有名。完成度が高く、ミケランジェロが「我々に出来ることが残っているのか」と嘆いたそうだ。

こうして、ギリシャはアレキサンドロスを経たことで、ロ-マへと受け継がれて行ったのである。    ・・・終わり・・

塩野七生著「歴史エッセイ」一覧 図-11に示す。

 

(感想)

①類い希なる才能が親の天才教育を受けて開花した。軍事、政治、経済全ての面にて優れた人物になった。

②残念なのは、人生を急ぎすぎて、若くして亡くなってしまったこと。後継者を作る暇がなかった。

③彼が長生きしてくれたら、どんな国際的な豊かな国、文化・芸術が花開いたことであろうか・・。

チコちゃんに叱られる、Ⅰ>

①組織って成熟するとどうなるの?--パ-キンソンの法則とは?ピ-タ-の法則とは?

森鴎外の表裏とは?---表は偉大な作家と軍医総監(官僚のトップ)でした。裏は?

③もし、貴方が関ヶ原の戦いで三成側に就いたとしたら、どんな戦略を取るのでしょうか?

                         以上